3.周囲の状況

 リュウキース殿下の婚約が正式に整うと、国内はちょっとした騒ぎになった。
 これほど人気のある王子である。おまけに城の中ばかりにいたわけでもなく、修学旅行にも行っていたのだから、それなりに顔も売れている。
 まず国内の有力貴族、大商人の娘たちは揃って落胆した。親たちも然り。王に抗議しようにも、相手が一国の王女となればそうもいかない。
 あとは名もない街娘、村娘たちも胸を痛めた。
 そのへんはまあよかったが、リュウキースにとって最も大変だったのは末の妹、エルメンリーアである。
 婚約が整ったことを聞くやいなやリュウキースの部屋に駆け込んできた。
 「リュウキースお兄様!!」
 「どうした、エルメンリーア」
 この時、エルメンリーアは13歳。やっとハイに上がったばかりである。
 リュウキースはさりげなくそれまで座っていた椅子から立ち上がり、何もないところに移動した。こういうときのエルメンリーアの行動は決まっている。
 果たしてエルメンリーアは、だーっと駆け込み、1、2とはずみをつけ、3でリュウキースに抱きついた。
 「おっと」
 これを支えるのが案外大変なのである。エルメンリーアは軽いのだが何せ勢いがついている。椅子に座ったままそれをやられると椅子ごとひっくり返る危険があるわけだ。
 今回も何とか無事受け止めた。
 「お兄様!」
 「エルメンリーア、もう大きいんだからいい加減これは止めなさい。危ないよ」
 「そんなの、どうでもいいですっ!」
 何をどう聞いてきたのか、大体リュウキースには予想がついた。やれやれ…父上か母上が一緒にいるときだったら適当になすりつけられるのに。俺も運がない。
 「どうしたの。学校で何かあったのか?」
 「違いますっ!」
 「…まあ落ち着いて。座りなさい」
 リュウキースはエルメンリーアの背をぽんぽん、と叩くと先程まで自分が座っていた椅子に彼女を座らせ、控えていた侍女に目で合図した。侍女も心得たもので、すぐにエルメンリーアの好物の果汁を持ってくる。
 しばらくエルメンリーアは怒った猫のようにふーふーと息をし、リュウキースをにらんでいた。
 怖くはない。一寸厄介だな、とは思うが。
 「エルメンリーア。飲みなさい」
 リュウキースは手ずから果汁を妹姫に渡した。
 「…」
 受け取らない。
 リュウキースは高価な硝子のコップをもてあました。
 「エルメンリーア」
 さっきより優しく言って差し出す。
 「…」
 元来素直なエルメンリーアはやっとこそれを受け取り、律義に一口だけそれを飲んだ。
 「で。どうしたの?」
 ここまではいつものパターンで計算済み。妹姫はこれで怒る気を半分以上なくしているはずである。
 ところが。
 「お兄様!」
 だんっ、とコップをテーブルに置き、エルメンリーアは怒鳴った。
 「何?」
 しかし、いつもとパターンが違っても、それで対処できないリュウキースではない。
 「お兄様のばかっ!ばかばかばかばかばかっっっ!!!」
 「…」
 「ばか───っ!!!」
 ─ 脈絡をくれ…。
 一瞬頭痛がした。それでも辛抱強く、
 「…何で僕がばかなの、エルメンリーア」
 「だって!だってお兄様ったらお兄様ったら…!」
 わぁぁんとそのまま泣き出された。手に負えない。
 ─ ここまでひどいのは、学校に行くなと言われた時以来だな。
 妙に冷静に思い出してしまった。
 「…エルメンリーア。泣いてちゃ分からないよ。僕が何かしたの?」
 「…」
 「えー、と。エルメンリーア、ちゃんと言ってごらん。僕がエルメンリーアにひどいことしたならあやまらなきゃいけないし、エルメンリーアが誤解してるならそれを解かなきゃいけないから。いきなりばかって言われても、僕も困るよ」
 ─ 俺は一体いくつの子を相手にしてるんだ…。
 こくん、とエルメンリーアは泣きじゃくりながらうなずいた。
 「だってっ…お兄様が…お兄様が、御結婚…」
 「ああ、そのことか」
 つとめて何でもないように、リュウキースは言った。
 「それがどうしたの?」
 「だって!だってお兄様…お嫌じゃないんですの?」
 「嫌とかそういうこと、言ってられないよ」
 「じゃ、いいんですの!?」
 「何かそれも違うけど。…何て言ったらいいのかな、そんなにエルメンリーアが泣くことでないことだけは確かだよ」
 「…」
 「僕はどこに行くわけでもないんだし、妃をもらってもエルメンリーアは大事な妹だよ」
 「だって…」
 「何、拗ねてるの」
 リュウキースは、にっこりと笑ってエルメンリーアの頭を抱いた。
 「エルメンリーアは僕の大事な妹だよ。
 僕は王太子だから、とにかく妃は貰わなきゃいけない。でもそれは、エルメンリーアにとって泣くようなことじゃないんだよ。
 僕の妃になる人は、外国から来るんだ。色々不安だろうと思う。僕も気づかうつもりだけど、やっぱり同じ女性同士、エルメンリーアにも何かと助けてもらいたいんだ。安心して頼める人はそういないからね。分かってくれるだろう?」
 「…そうです…わね…」
 エルメンリーアはうなずいた。彼女は何と反省を始めたらしい。
 「ごめんなさい、お兄様。私ね、お兄様が御結婚なさったら、もう今までみたいに私のこと可愛がって下さらないんじゃないかって思ってましたの。でも、よく考えたら私のお義姉様になる方は、とても大変なんですものね。知らないところに来て、知らないところでずっと暮らすんですもの…。
 ごめんなさい、お兄様。私、新しいお義姉様とうんと仲良くなれるように頑張りますわ」
 「ありがとう、エルメンリーア。やっぱりエルメンリーアはいい子だね」
 リュウキースはかがんでエルメンリーアの顔を見上げ、目を合わせてにっこりと笑った。
 ─ 俺の予想を全く裏切らないという意味もあるけどね。
 まあ、頭の中でこんな黒い考えが浮かんでいたのも本当である。