帝王妃ソフィーダ
第三十八話

 ソフィーダが向かった先は、やはり祭祀所だった。
 魔霊の結界が張られた後とあって、神官たちが憔悴しきった顔であちこちに座り込んでいる。寝台がある部屋にすらたどり着けないのだ。
 そんな中港から来たらしい兵士が、受付の下っ端神官と必死でかけあっている。
 「相手は魔術を使うのです!こちらもジンやアフアリートを使わなければどうにもなりません!」
 「そうは言われるが、今、その力を持ったものはことごとくマーリドの結界を張ったおかげで力尽きております。今すぐにと申されましても…」
 「時間がないんだ!敵はもうすぐそこに来ている!恐れ多くも信徒の長、マジェスティまで前線にいらっしゃるのだ!」
 「勿論、何とかしたいのはやまやまなのですが…今しばらく。しばらく…」
 「お黙りなさい!」
 ずかずかと進みながらソフィーダは一喝した。
 言いあっていた二人はその高貴な女性を見てひれ伏す。
 「お兄様はどこ?」
 「…は?」
 おそるおそる顔をあげた神官を、ソフィーダは恐ろしい威圧感でにらみつけた。
 「わたくしの兄、ムスティール・レギオンはどこにいらっしゃるのかと聞いているの!」
 「は、はい…多分、まだ召喚の間に…」
 「分かったわ。それから、神官を出し渋ることはこのわたくしが許しません。至急、神官を総動員してマジェスティ並びに港で戦っている兵士達の援護に向かいなさい」
 「は、はいぃ」
 無我夢中で神官は床に頭をこすりつける。ソフィーダはもうそれを見ようともせずに、召喚の間に向かった。


 召喚の間では魔霊の結界を張るために必要だった儀式用の道具を、下っ端の神官たちが片づけ終ったところだった。
 香や供物の匂いがつんと鼻につく。
 ソフィーダの兄、ムスティールは力尽きた様子でぐったりと壁にもたれて座り、足をだらしなく投げ出していた。
 髪もぼさぼさだし、髭も伸びている。いつもきちんとしたところしかみたことがなかったので、一瞬自分の兄だとわからなかったくらいだ。
 「お兄様!」
 ソフィーダは兄に駆け寄り、その肩を揺さぶる。
 「…ん…?ああ、マジェスティーナか…。すまない、ちょっと休ませてくれ…」
 「お兄様、それどころではありませんの!今ルッテル・ドナは大変なことになっているのです!」
 「大変なこと…?」
 「フィオルナ軍が攻めてきて、もう湾の中に入られているのです。魔術を使われたせいで発見が遅れて。今、マジェスティを先頭に大臣や兵士達が必死に戦っていますけれど、火矢まで放たれたせいでどうにもならないのです。
 お願いですお兄様、マジェスティをお助けにあがって下さい。お願い!」
 「…無理だ、マジェスティーナ」
 ムスティールの声に、力はなかった。
 「どうして…?」
 「今の私は…というか神官たちは、マーリドの結界で力を使い果たしている。こんな状態でジンなど呼んだら、召喚者の命も危ないし、多分元々ジンが応えてくれない。今すぐには、無理だ」
 「だって…それでは、マジェスティが」
 ソフィーダの目に、そこで初めて涙があふれた。
 「お兄様、マジェスティが。わたくしのマジェスティが…!」
 上手く言葉にならなかった。
 「…どうしてわたくしには何も出来ないの…?」
 つくづく自分が嫌だった。
 剣や弓が出来れば、マジェスティの盾となれるのに。でなければ、ムスティールのようにジンを自由に操れたら、今この瞬間マジェスティを助けに行けるのに。
 「お兄様、何故わたくしはマジェスティーナなの?肝心な時にマジェスティをお助けできなくて、何がマジェスティーナなの?千年に一度のマジェスティーナと言われても、こんなときには何も出来ませんの?」
 ソフィーダはただ泣きじゃくった。そんな彼女に、いつのまに来ていたのかレーゼがそっと涙を拭う布を差しだしたが、ソフィーダはそれすらも払った。
 果たして、ムスティールはそこで初めてはっきりと目を開けた。
 「…マジェスティーナ」
 「何ですの?」
 それから少しためらった後、ムスティールは重そうに言った。
 「お前、マジェスティの為に命を賭ける覚悟はあるかい?」
 「勿論ですわ!」
 ためらいなどあるはずがなかった。ムスティールは大きく溜息をつく。
 「こんな日が…いつか来るんじゃないかと思っていたんだが…こなければいいと思っていた…」
 「何ですの、お兄様?何か、わたくしに出来ることがあるんですの?」
 「お前にしか出来ない。それが、お前がマジェスティーナたりうる所以だよ」
 「勿体ぶらないで教えて下さいませ。事は一刻を争うのです。こうしている間にも、マジェスティが………」
 ムスティールの頬を一筋、涙が伝った。
 愛しくてたまらない妹。
 激情に身を灼いている今が多分、今までで一番美しかった。
 その妹を ─ 。
 「仕方がない。この時のために私は神官になった。お前の手助けが出来るように」

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