帝王妃ソフィーダ
第二十二話

 話は数日前の夜に遡る。
 寵姫タチアナの元には、ベヴィア・マイアが来ていた。
 前と同じように、タチアナの部屋近くの庭にある茂みに身を隠している。
 タチアナは一人で庭を散歩するふりをし、びくびくしながら老婆と話していた。
 「今日は、何…?」
 「何、とはまたつれない返事ですな。タチアナ・ディアナ様」
 「その名は棄てたわ。私はただのタチアナよ」
 「御自身で簡単に棄てられるとは、軽い名ですな。ま、御自身のお好きなように…時間がありませんので、手短に。宜しいですか?」
 「…ええ」
 「マジェスティーナや、その他の者たちについてですじゃ」
 「マジェスティーナ?」
 帝王のことを聞きたいというのなら分かる。何故、帝王妃なのだ?
 「今のタチアナ様にマジェスティのことをお聞きしても、答えては下さいますまい?」
 「…ええ」
 恋しい帝王のことをこの不気味な老婆に話したら、些細なことでも命取りになりかねない。タチアナはきっと唇を結んだ。
 「では、代わりに他のことを教えていただきたいのですよ」
 「何故…?」
 「それをあなた様に聞く権利はありませぬ」
 ぴしゃりと言われたタチアナは、背中につめたいものが走るのを感じた。
 本当にこの老婆が怖かった。
 「答えて下さらないならそれも結構ですじゃ。…ただ、この婆がここに居るということにどういう意味があるのか、もう少し考えて下さってもよろしいのではありませぬか?」
 「…どういうこと?」
 「婆は既に二度もこうやってレスト・カーン王宮に入り込んでおります。
 ということは、マジェスティの寝所に入ることも、あるいはあなた様のところに来たマジェスティを………」
 タチアナは声をあげそうになり、慌てて口をおさえた。
 この老婆なら、本当にやるのだ。
 「災いの老婆……」
 フィオルナの王宮で、密かに囁かれていたベヴィア・マイアの二つ名を搾り出すように言うと、老婆はかすかに微笑った。
 「誰にとっての災いか、というのが問題ですじゃ。婆はその二つ名をありがたくいただいておりますよ。
 さあ、タチアナ・ディアナ様。教えて下さるのか下さらないのか、どちらですかのう?」

 タチアナは後ろめたい気持ちから、その日以来びくびくと過ごしていた。
 あの老婆は、自分が渡した情報をどう使うつもりなのだろう。
 大した情報ではなく、日々どうやって生活しているか、お気に入りの奴隷は誰か…とか、大臣の名前や序列とか、そのような感じの…タチアナにしてみれば、あたりさわりのない情報ではあったけれど。
 とにかくもう、自分のところには来ないで欲しかった。
 帝王の御子を身籠もった、大事な身体なのだ。心を乱したくなかった。
 そっと自分の腹をさする。愛おしい感じがして、嬉しい。
 今日は帝王が訪れる予定もなく、闇夜で何となく気も晴れなかったので、早くやすむつもりだった。
 ─ もう私一人の身体ではないのだから、気づかわないと。
 ふふっ、と少し笑って寝台に向かう。
 だがその時、一人の奴隷が五の大臣の来訪を告げてきた。
 「五の大臣?こんな時間に…?」
 よくない予感はしたが、拒む理由はない。ただでさえ何となく苦手な五の大臣に会いたくはなかったが、後宮にいてもなんの後ろ盾も持たない身としては、わざわざ不興を買うような真似はできなかった。
 果たして、タチアナが会うのを承諾したという旨を伝えた奴隷が下がるとほぼ同時に、件の大臣が全く不作法にずかずかとタチアナの寝所に押し入ってきた。
 「ジール様、どうしましたの突然…?」
 「理由を話している暇はありません。単刀直入に聞きます。これに覚えはありますか?」
 ジールが懐から出したのは、1枚の鴉の羽。
 ─ 災いの、老婆…!
 タチアナは気を失った。

 タチアナ付きの奴隷達が、薔薇水をふりかけたりして彼女の意識を取り戻そうとしている傍らでジールが尊大に構えていると、捜査を一通り終えたサラディンがやってきた。
 「やあ。よくここにいると分かったな」
 「祭祀所でムスティール殿に訊いた」
 「で、そちらは?」
 「変わらない。特に何も見つからなかった。今、密かにルッテル・ドナ内も探させているが、これといった報告は入っていない」
 「やれやれ…」
 「イーエンは?」
 「鴉の羽をつきつけた途端、あのざまだ。知らないとは言わせん」
 ジールはタチアナの方を顎でしゃくった。どうやら気づいたようだ。額を押さえながらゆっくりと起き上がっている。
 「お、起きた。それじゃ改めて」
 訊くとしますか、と言いかけて動き始めたジールを押しのけ、タチアナに詰め寄ったのは帝王アードだった。
 「…マジェスティ…」
 タチアナの顔は真っ青だった。
 「タチアナ。時間がない。今すぐ教えてくれ。鴉の羽に、何が思い当たったんだ?」
 「…」
 「タチアナ」
 別人かと思うような帝王の様子だった。
 「…気分がすぐれませんので…少し後で…」
 「聞こえなかったか?時間がない」
 「何故です…の?」
 「一度しか言わないからよく聞け。先程、ソフィーダが攫われた」
 「!」
 「その現場に残されていたのが鴉の羽だ。思い当たることがあるんだろう?今すぐ教えてくれ」
 「…………そんな…………」
 タチアナはがたがたと震えだした。
 そんな、まさか。
 「タチアナ!」
 「あ…」
 何か言おうとするのだが、上手く言葉が出ない。
 息が苦しくて、頭がぐらぐらする。
 もう一度気を失う寸前、アードとタチアナの間に一本の手が割って入った。
 「何だ、ジール」
 あからさまに不機嫌な声でアードが言う。
 割って入ったのは、ジールだった。
 「出過ぎた真似をして申し訳ありません、マジェスティ。ですがそれではイーエンは答えられません。どうやらイーエンは我々が思っていたより多くのことを知っている御様子。少し落ち着いて、ゆっくり答えていただくしかないでしょう」
 「そんな時間がどこにある」
 「先程から大変お怒りなのは察しております。しかし、急いてはことを仕損じます。犯人の糸口も掴めたことですし、少し状況を整理いたしましょう。我が父、一の大臣ならば些少ながら『鴉の目』についても知っていると思われます。早急に王宮にお呼びしますので、そちらの話も御参考に。
 相手が外国となれば、またやり方もあります。
 イーエンからは、さしあたり先程の女奴隷に聞いてもらえばよろしいかと。同性ならば話しやすいでしょう。…過ぎた温情ではありますが。如何ですか?」
 「レーゼか」
 アードはしばらく考えた後うなずき、タチアナの胸ぐらを掴んでいた手を離した。

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