茂みの中にいたのは、どろりとした目をした老婆だった。
「…!」
タチアナは凍りついたように動けない。
「ベヴィア・マイア…」
搾り出すような声で、やっとそれだけを言った。
「覚えていて下さいましたか?やれやれ、婆もここまで来た甲斐があったというものですじゃ」
穏やかな物言いとは裏腹に、ベヴィア・マイアの目はまばたきひとつせず、射るようにタチアナを見つめている。タチアナには、フィオルナに居た頃から、赤く光るようなその目が恐ろしかった。
「婆の名を出した以上、記憶がないとは言わせませぬ。タチアナ・ディアナ様」
ベヴィア・マイアの声は低く、押し殺すようになっている。タチアナまで届くだけの声で話しているのだ。この婆にとってそのくらいのことは、息をするように簡単に出来る。
「騒いだりなさると、どうなるかはお分かりでしょう」
「…」
「いくつか答えていただきたいことがありますのじゃ。宜しいですな」
タチアナは、やっとの思いでうなずいた。
「懐妊なさっていると聞き及びました。まことですか?」
…タチアナはうなずいた。
「ファーレンダイン王の御子ではなく?」
「…ええ」
「どうなさるおつもりか?その子をたてに、マジェスティーナの位に上るおつもりか?」
「そんな、大それたこと…」
「考えてはおりませぬか」
「だって、私には無理ですもの」
「何故」
「…五の大臣様がそうおっしゃったから…それに、私の御子も予備に過ぎない、って…」
「ほぅ」
ベヴィア・マイアの目の赤さが、心なしか増した。
「なるほど。では別の質問ですじゃ。
タチアナ様、貴女様はフィオルナの為にここに居られますか?」
「…どういう…意味?」
「つまり、レスト・カーンの情報を我々に流して下さったり、ここの帝王を殺めたりという目的の為に、あえてこちらにとどまっておられるのですか?という意味ですじゃ」
「!そんな!とんでもないわ、私は」
「大きな声を出されませんよう」
タチアナは思わず自分の口を塞いだ。体が震え始める。タチアナには心底この不気味な老婆が恐ろしかった。
「では、ここに居りたくて居られる、というわけですな」
…少し迷った後、タチアナはうなずいた。
ベヴィア・マイアは、その時初めてわずかに表情を変えた。笑ったのだ。
「婆の思い通りですな。では、ここに居られるとよい。その為に、婆とフィオルナに尽くしていただくことには、なりますが。なに、利害は一致いたしますじゃ。御安心めされ。
ククク……………」
タチアナの部屋を去り、帰途につこうとしたジールは、宮殿の出口に近い廊下でサラディンに会った。
「やあ」
「…帰るところか」
「ああ。君はこれから…?」
「マジェスティに、本日の出来事を申し上げるだけだがな」
警察総監であるサラディンに、あまり決まった仕事時間はない。
「そうか。ご苦労。…で、例のことは聞いたか?」
「例のこと?」
「イーエンの懐妊」
「…知らなかった。 懐妊したのか」
「らしい」
「それはよかった」
「…まあ、世継ぎという点で見ればな」
「他に何か考慮すべきところがあるのか?」
「…今のところはないな。最大の心配事はもう片づけた」
「何だ?」
「あの女がマジェスティーナになれるかどうか、さ」
「なれないのか」
「なれないよ。祭祀所のムスティール殿が、保証して下さった」
「そうか」
「あの女に警告もしてきた。妙なことは考えないだろう。
もっとも」
ジールは、少しだけ人の悪そうな笑みを浮かべた。
「考えたところで、僕がどうにもさせやしないけどね」
ところが、サラディンはじっと考えこんでいる。
「そうか、あれはマジェスティーナにはなれないのか」
「…君は、困るのか?」
「困る…といえば困るが」
「!?」
ジールはサラディンの胸ぐらをつかみ ─ と言ってもサラディンはかなり大柄なので、ジールに捕まれたところで振り払おうと思えばすぐなのだが
─ きっと睨みながら低い声で言った。
「どういうつもりだ。ことと次第によっては、謀反の疑いをかけるぞ」
「そんなつもりじゃあない。離してくれ、ジール」
サラディンは顔色ひとつ変えなかった。
「じゃあなんだ?」
「全てにおいて、マジェスティがよいようになさればいいのだ」
「…」
「ところで、マジェスティーナの基準は何なのだ?」
「…………言えない。ごく限られた人間しか知らない秘密だ。マジェスティーナ御自身も御存じでない」
ジールは、サラディンの内心を伺うようにじっと見つめていたが何の変化も見られない。
「そうか。じゃあ仕方ないな」
「……………」
「離してくれないか、ジール。マジェスティの御前に伺わなければ」
「……………サラディン・ルール」
「何だ」
「カリューンの名にかけて、お前は、敵か、味方か?」
サラディンの顔に、やや色が浮かんだ。
「カリューンの名にかけて、俺の主君はマジェスティ唯一人だ」
「…その言葉、忘れるなよ」
ジールはやっと、サラディンの胸ぐらをつかんだ手を離した。
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