一方帝王はといえば、実ににやけた顔で玉座に座っていた。
丁度政務が一段落したところである。
「…マジェスティ、顔をなんとかして下さい」
横にいた五の大臣、ジールが容赦なく言う。
「んー?何でだよ?」
「何を思い浮かべていらっしゃるのか知りませんが、ここは政務の場です。お控え下さい」
「つれないなあ」
帝王は脚をぶらぶらとさせた。
「イーエン(寵妃)がそんなにお気に入りですか」
「そうだなあ」
言うそばから顔が緩んでいる。
「なんというかさ、尽くされる喜びというか。分かるか?」
「さあ」
「分からないか…余裕の無い奴だなあ」
「そんなこと言われましても」
「外国の育ちだから、レスト・カーンについてはやっぱり分からないことが多いらしいんだけどさ。健気に勉強したりして。えらいぞあいつは」
「そうですか、では見習ってマジェスティも勉強なさるというのは」
「…」
ジールは少し首をかしげた。一体寵妃はどこで育ってきたのだろう。
一応、タチアナを競りに出した人物の身元は確認してある。かなりの高齢で、引退寸前の奴隷商人だった。
滅多にお目にかかれない程の素晴らしい素質を持った奴隷だし、自分の年齢からいってもこれが最後の逸材だろうということで、随分教育などに気を配っていた。更に金に困っていた訳でもないので奴隷自身が出した条件
─ 自分が気に入った人物でなければ売らない ─ という条件も呑んだらしいのだが。
そこに至るまでは、残念ながらよく分からなかった。様々な人の手を経てきたらしい。
「マジェスティ」
「ん?」
「恐れながら、イーエンがどこの育ちかというのは…」
聞いたのですか、とジールが尋ねようとしたその時、泡を食った侍従が駆けつけてきた。
「マジェスティ、恐れながら申し上げます!」
「何だ、騒々しい」
ジールは眉をひそめる。
「イーエン・タチアナ、御懐妊でございます!!!!」
アードは、玉座からものの見事にずり落ちた。
「里下がりしようかしら」
舞台はまた後宮に戻る。
タチアナをとにもかくにも下がらせたしばらくの後、ぽつりとソフィーダが言った。
「え?」
レーゼがびっくりして聞き返す。
「里下がり。実家に帰ろうかしら。って。聞こえなかったの、ヴァン・レーゼ?」
「聞こえております。だからびっくりしたのではないですか」
「後宮に入ってから、里下がりするなんてないに等しかったんですもの。いいでしょう?」
「…だだをこねないで下さい、ソフィーダ様。そんなこと、マジェスティがやすやすとお許しになるとお思いですか?」
ソフィーダはものすごく憂鬱そうな顔をして、溜息をついた。
タチアナが懐妊。
しかも、帝王に報告する前に帝王妃である自分にお伺いをたて、「お許しがあれば」このままマジェスティの御子を産むというのだから気も腐る。
タチアナが御子を産み、それがもし男御子だった場合、帝王にとっては長男になる。つまり、次期帝王になるかもしれないのだ。
その場合、ソフィーダははなはだ不安定な立場になる。
現帝王アードが健在なうちはまだいい。もしこのままソフィーダに子が出来なくて、タチアナの息子が帝位を継いだ場合、ソフィーダが持つ権力はなにひとつと言っていいほどなくなる。新しい帝王妃が現れるのだろうし、そうなった場合子を持たない元帝王妃など、後宮では目障りなだけだ。
しかし、「お許しを出さない」というのもそれはそれでソフィーダのプライドが許さない。
思えばなんと厄介な事態になったことか。
「やはり、里下がりがしたいわ。気分を変えなければ。ね、レーゼ」
「…マジェスティがお許しになれば、ですよ…?」
あまり期待するなという意を含めて、レーゼは言った。
「お許しが出るようにとりはからえばいいのよ。さ、レーゼ、行きましょう」
「どこへですか?」
「お兄様のところよ。支度を」
言いながら、ソフィーダは長椅子から体を浮かせた。
ソフィーダの兄、ムスティールは祭祀所(さいしどころ)の神官だった。
カリューンを唯一神と崇めるこの国では、祭祀所は重要な機関である。勿論、カリューン信徒の長は帝王その人に他ならない。
ムスティールは血縁関係からもその立場からも、アードとは懇意にしていた。しかし仕事は宮中の宗教行事に関わることが多く、世俗の権力とは縁が薄かった。
父は二の大臣なのだし、妹のソフィーダは後宮に入りあまつさえ帝王妃の位を戴いているのだから、ムスティール自身も、望めば大臣の位のひとつやふたつどうとでもなるのにと惜しむ声も多かった。
が、当の本人はカリューンに一生を捧げることを決意し、さっさと祭祀所に身を置いてしまったのだから仕方がない。神官になったからには、妻も娶ることは出来ない。
結果的にはムスティールがそうしたことによって、一の大臣フィヤン・ガリスと二の大臣リヤド・レギオンは後継者 ─ フィヤン・ガリスの後継者は、一人息子のジール・ガリスに他ならないのだが
─ に渡す権力で争う必要もなくなり、政治抗争の種が一つ減ったことになる。
ムスティールがそこまで考えていたかどうかは、誰にも分からないのだが。
ソフィーダが祭祀所を訪れると、ムスティールは召喚の間にいる、とのことだった。
正式にはまず他の者を使いに出してムスティールの都合を確かめ、かつムスティール側でも帝王妃を向かえる準備を整えてから、改めてソフィーダ自身が訪れるというのが正式なやり方ではあるが、ソフィーダはこの際、そんな正式な手順は踏んでいられなかった。
レーゼのみを伴い、祭祀所の召喚の間に向かう。
見上げるとくらくらするほど天井が高く、そして広すぎるほど広い部屋。
壁には魔神(ジン)、鬼神(アフアリート)、魔霊(マーリド)、それぞれの紋章をデザインした細やかな壁画がびっしりと描かれ、床は磨きあげられた美しい大理石がしきつめてある。
いくつもある飾り窓にはいちいち宝石がちりばめられ、全体的に白く感じるこの部屋に彩りを与えていた。
弱いものならばこの場でなくとも霊媒などによって召喚可能だが、力の強いものとなるとやはりこういった場が必要なのである。
兄のムスティールはその部屋の丁度中央に、一人で佇んでいた。
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