帝王妃ソフィーダ
第2章
第十一話

 さあ、そろそろ目を開けて。カリューンの呼ぶ声を聞いて。
 大きな物語が始まる。あなたが目覚めるのを、待っている。

 レスト・カーンと湾を挟んで向かい合う国。
 その名をフィオルナといった。
 カリューンを奉じていない国である。よって、昔からレスト・カーンとは仲が悪かった。
 舞台はその王宮に一時、うつる。

 レスト・カーンのそれとはまた趣味が異なり大層きらびやか、かつ一見して「金がかかっている」というのがよく分かるような宮殿。
 玉座には、40代半ばと思われる王が座っていた。
 名をファーレンダイン・フェダ・フィオルナ。
 そして褐色に近い金色の髪に緑の瞳をした…と言えば何となく華奢な印象を受けるが、実際はその逆である。
 お世辞にも美男子とは言いがたい。むくつけき大男であった。
 その王は苛々と頭をかきむしっている。
 「妃はどうした、妃は。まだ手がかりのひとつも掴めぬのか?」
 「今少しお待ち下さいませい、陛下。何しろ海賊に襲われたということくらいしか分かってはおりませんかったのですじゃ。この婆の部下をもってしても、なかなか手がかりが掴めないのはせんないこと」
 「婆の『烏の目』をもってしてもか」
 「面目ないことですじゃ。しかし吉報もございましたでしょう。どこの海賊に襲われたかはもう分かっておるのですじゃ。あとは時間の問題」
 「…それはともかく、妃は無事なのか?」
 「少なくとも海賊に殺められなかったことは確か、と烏の1羽が言うておりましたですじゃ」
 ファーレンダイン王と話しているのは側近の1人であるベヴィア・マイア。すっぽりと黒いローブを被った、醜い老婆である。
 一見どんよりとしたただの老婆に見えるが、その実彼女は先々代からフィオルナ王家に仕える諜報員兼魔術師であった。
 今は彼女が指揮する「烏の目」というのが、フィオルナにおける最も重要な諜報部隊になっている。
 「…ということは、売られたのか?」
 「おそらくは」
 「一国の王妃を売るとは、信じがたい…普通そのような場合、身代金の要求なりなんなりがくるのではないか?」
 「婆もそう思っておりましたですじゃ。だが、それはありませなんだ。…ということは答えは別の方向に持っていかねばなりますまい。つまり…海賊は王妃としらなんだか、王家と交渉することの危険を重く見て諦めたか…まあ、どちらかでしょうなあ」
 「それにしても妃は無事なのか……?」
 ファーレンダイン王は溜息をついた。
 彼の年若い妃が行方不明になってから、もう3ヶ月が経とうとしている。
 身を清める為、城から離れたところにある有名な修道院に船で向かい、儀式が済んだ帰りに行方不明になったのだ。
 その事実は公式には発表せず、王妃は修道院での儀式中具合が悪くなり、未だそこで療養中ということにしてはいるが誤魔化すのにも限度があった。
 「大丈夫なのか…タチアナ…………」

 湾の向こうのレスト・カーン王宮。
 さらにその後宮の中にある、帝王妃の部屋。
 主は勿論、美しきレ・アル・ソフィーダ。
 背の君の帝王アード・アル・レストは色好みではあるが、まだ若い割に名君だとの評判も高く、近辺のカリューンを奉じる国々から慕われてもいる。まさに飛ぶ鳥落とす勢いを持った帝王といってよかった。
 …ところが、件の帝王妃は今、実に愉快ならざる顔をしている。
 お気に入りの長椅子にゆったりと体をあずけ、足下には御側去らずの奴隷、レーゼが控えているのだが、ソフィーダはその表情のまま訴えた。
 「…ねーえ、レーゼ。つまらないわ」
 「気がくさっておいでですか、ソフィーダ様」
 「当たりよ」
 「原因は…」
 「言わなくても分かるわよね、ヴァン・レーゼ?」
 「…ハイ…」
 レーゼもうつむくしかない。
 警察総監サラディン・ルールからタチアナという奴隷が帝王に献上されてからはや3ヶ月。
 よくもまあ耐えたものだとソフィーダは自分を誉めてあげたくなる。
 タチアナは、勿論ソフィーダとは別の部屋に住んでいるのだが、毎日御機嫌伺いに来る。貢ぎ物も3日とあけずにやってくる。ただひたすら、ソフィーダの心証をよくしようという目的だ。
 出来れば彼女の顔も見たくないソフィーダではあったが、これが悪意あって来るならともかく、純粋に「大好きなアード様の帝王妃様に尽くす」為に来られるのでは対処の仕様がない。
 タチアナから送られた高価な果物を目の前にしたソフィーダが、真面目な顔をして、
 「いっそこれに毒でも盛ってないかしらねえ」
 と言ったときには、さすがにレーゼも仰天したものだった。
 帝王も帝王である。
 「何?タチアナがお前にそんなに贈り物を?道理であいつの部屋が地味なまんまだと思った。そうかそうか、そんな健気なことを…泣けるなあ、おい」
 ソフィーダには言える言葉がない。
 「今までの妾はねえ…どうとでもなったのだけれど…」
 「心根の悪い方ばかりでしたからね」
 「そうね」
 相変わらず二人とも辛辣である。
 その時、奴隷頭が部屋に入ってきた。
 「マジェスティーナ、イーエン(寵姫)がお目通りをかないたいと申し出ておりますが…」
 そうなのだ。
 タチアナは奴隷の身分でありながら帝王妃(マジェスティーナ)に次ぐ妃の位である寵姫(イーエン)を戴いている。帝王の計らいだ。
 帝王妃の座は一帝王につき一人であるからして、その座を奪われることはないものの、ソフィーダにとって愉快ならざることに変わりはなかった。
 それはともかく、ソフィーダはレーゼと顔を見合わせた。何しろ、ストレスの原因がやってきたのだから。
 「…どうしようかしら」
 「あんまり風邪だとかなんとか言うと、あとで面倒なことになりますよ?」
 「…そうねえ」
 会いたくないときは仮病をつかうこともあったが、そうするとタチアナの方から医師やら見舞いの品やらが派遣されてきて大変なことになるので、おちおちそんな言い訳も出来なかった。
 「でも、ねえ…」
 あまりにソフィーダの気がすすまなそうだったので、レーゼはただ気の毒な気分になった。
 「…ソフィーダ様」
 長椅子に伸びているソフィーダの脚に、そっと接吻する。
 「いい子ね、レーゼ」
 手を伸ばしてお気に入りの奴隷の頭を撫でた後、意を決してソフィーダはうなずいた。
 心得た奴隷頭は一礼して下がり、入れ違いにタチアナが入ってくる。
 顔色が、珍しく青ざめていた。
 いつもはもっと満面の笑みで入ってくるのだが。
 ソフィーダがレーゼと顔を合わせている間に、タチアナはソフィーダの目の前の床に体を投げ出し、搾り出すような声で言った。
 「お許し下さいませ、ソフィーダ様。私…わたし………」
 何を言い出すのかとソフィーダもレーゼも身構えた。
 しばらくの後、決死の覚悟でタチアナは上半身を起こし、ソフィーダの目を見据えてきっぱりと言った。
 「お許し下さいませ。マジェスティの御子を身籠もっております」
 「……………………」
  さすがの帝王妃も、そのお気に入りの奴隷も、言うべき言葉は見当たらなかった。

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