帝王妃ソフィーダ
第六話

「え!」
 さすがのアードもびっくりする。ジールも呆気にとられて動けなかったが、サラディンは既にさりげなく腰の剣に手をかけていた。
 「あなたですわ、御主人様!」
 女奴隷は嬉しそうにアードに強く抱きつく。
 「あの…俺?」
 「そうですわ!」
 と言ってから仲買人の方をちらっと見、
 「私、この方が気に入りました。この方でなければ嫌です!」
 「そ、そうか。気に入ったか」
 仲買人としてはわけがわからないながらも、とにもかくにも買い手がついたという現状の方が先である。
 「旦那様、この奴隷が気に入ったのは旦那様が初めてですよ?お買いいただけますよね?」
 「ますよね、って言われても…」
 アードはひたすら困惑していた。
 「ねえ御主人様、私は醜いですか?お気に召しませんか?
 …どうしても、だめですか…?」
 好みの美人に上目遣いで涙ぐまれて落ちないほど、アードは意志強固な男ではない。
 「えと…そ、そんなわけない、とんでもない。お前は綺麗だよ、ほんとだ。うんうん」
 よしよし、と女奴隷の頭を撫でてから顔だけジールの方を向いて小声で、
 「おい、何とかしろ」
 「何とかしろと言われましても。そんな金は持ってきておりませんよ。1000デュランからですよ?第一、奴隷を買うには身分証明が必要です。財産になるんですからね。分かってるんですか?」
 ジールも小声で言う。こんな事態はさすがに予測していなかった。
 「そんなの知るか、この場で法改正だ」
 「無茶言わないで下さいよ!」
 「御主人様…もしかしてお金がないのですか?」
 「えっ…?あ、いや、そんなわけでは」
 「だったら是非。是非、私をお買い求め下さいませ。絶対に損はなさいません。ね?」
 「…えーーーと………ジール!!」
 「知りませんよ!」

 「ちょっとレーゼ!これはどういうこと!?」
 「お、落ち着いて下さい」
 かなり距離はあるが、夫である帝王を見間違うソフィーダではない。
 「なんなのこれは!?」
 「え、ええと…察するに奴隷の方がマジェス…う、ええと、とにかく御主人様を気に入ったみたいですね」
 「冗談ではないわ!」
 ソフィーダは頬を紅潮させ、ずかずかとステージの方向に向かって歩いて行った。
 怒りに身を灼いてもこの帝王妃は美しい。そして美人というのは怒ると周囲を圧する何かがある。まして帝王妃という高貴なオーラを持っている。その力で彼女は人込みをかきわけていった。
 「ま、待って下さい!」
 「待てるもんですか!
 第一レーゼ、どういうこと!?あの奴隷は今わたくしがしているのよりよっぽど薄い、上等なヴェールをしているわ!」
 「えっ、怒るところはそこですか?」
 「それも怒るところよ!」
 ─ えーと…。
 と一瞬迷ったが、そんな場合ではない。
 帝王は見つかってもまあどうということはないだろうが、帝王妃はそうはいかない。お忍びで市場をふらふらしてました、などということが公になったら帝王妃の名誉は地に落ちる。
 「ソ…じゃないお姉ちゃんお姉ちゃん、待って下さいよぅ」
 小柄なレーゼは人の中でもみくちゃにされながら必死でソフィーダを追う。それでもソフィーダには到底追いつけない。

 「御主人様に買っていただけなかったら私…私、どうしたらいいんでしょう。御主人様以上の方なんてとても見つかりませんわ。ねえ、どうしていけませんの?私がお嫌いではないのでしょ?」
 「嫌いだなんてそんなそんなとんでもない、な、ちょっと待って。ちょっとだけ待ってくれ。
 …おい、ジールったらジール、何とかしてくれ」
 アードは顔を女奴隷に向けたりジールに向けたり実に忙しい。
 「この場ではどうにもなりませんよ。とりあえず断って下さい」
 「バカ、お前は女の心は変わりやすいってことを知らんのか!」
 「そうしたらそれだけの縁だったということで」
 「旦那、ねえ旦那?買っていただけるんですか買っていただけないんですか?」
 しびれを切らした仲買人が口を挟んできた。周りの商人達もどうなることか好奇心満々で注目している。
 その頃やっとソフィーダは距離にしてアードまで3メートルまで近づいていた。ただし、人が多いのでその3メートルは案外大きいものだが。面倒になった彼女は大きく息を吸い込み、
 「マジェス…」
 「俺が買おう」
 叫ぼうとした瞬間、サラディンが仲買人とアードの間に割って入った。
 「サラディン!?」
 アードとジールが同時に声をあげる。
 サラディンは顔色一つ変えず、懐から大粒の宝石をばらばらと取りだし、仲買人の手の上に撒いた。
 「これでいいか。足りなければあとで払いに来る」
 「えっ、あの…」
 「私はあなたに買われると言った覚えはありませんわ!」
 「心配するな。俺が買った後、この人に献上する。それでいいだろう」
 「…本当に?」
 「本当だ」
 女奴隷はしばらくサラディンをにらみ、それから安堵した表情でアードに抱きつき直した。
 「よかった。これで私はあなた様のものですわね」
 「あ、ああ…あの…そうみたいだな…」
 さすがのアードも、あっけにとられてうまいことが何も言えない。ジールに至っては予想外のサラディンの行動に、苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
 3メートル向こうのソフィーダはと言えば、怒りのあまり何も言えない。やっと追いついたレーゼはソフィーダの手をしっかり握っているのが精一杯だ。
 そんな中サラディンは相変わらず落ち着き払って奴隷を買う手続きを続け、女奴隷は、
 「私、タチアナと申しますの。これからよろしくお願いいたしますわね、御主人様」
と言ってにっこり笑った。

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