帝王妃ソフィーダ
第十話

 短剣。
 タチアナはどこに持っていたやら、短剣をさっと取りだすと自らの前に置いて深々と頭を下げた。
 ─ !?
 周囲がどよめく。
 レーゼはとっさに、ソフィーダの前に身体を乗りだした。
 「私に、死をお命じ下さいませ、マジェスティーナ」
 「!!??」
 タチアナの言葉に、誰もが驚愕した。
 「な、何を言いだすんだお前は!?」
 ジールでさえ、後宮の決まりごとを忘れて顔を上げている。
 「マジェスティーナ。カリューンに誓って申し上げます。私は、あの方が恐れ多くもマジェスティであるとは、知らなかったのです。ただ、あの方に是非私を買っていただきたいと思った、ただそれだけなのです。マジェスティーナと寵を競うなど、考えてもおりません。
 でも…でもマジェスティーナ、私は他の主人に仕えるのはもう、出来ないのです。愚かしいとお思いでしょうが、あの方を見てしまった以上、他の主人を見つけることは出来ません。ですから…ですからマジェスティーナ、どうか私に死をお命じ下さいませ!」
 タチアナは頭を下げたまま一気に言った。

 ─ そんなこと言われても…。
 というのが、ソフィーダの頭に浮かんだ第一感想であった。
 相手にここまで開き直られている以上、却って死ねとは言えないのが人の性である。
 ましてここで「じゃあ死になさい」と言えば、「警察総監から帝王に献上されるはずだった奴隷を、帝王妃が私的理由で殺した」という実に愉快ならざる結果になる。
 そこまでこの奴隷は計算しているのだろうか…?
 「お前、死ぬつもりだったらせめてここに来る前に死んだらどうだ!何もマジェスティーナの御前で……!!」
 ─ 全くだわ。
 ジールの言葉に、内心ソフィーダは大きくうなずいた。
 「お許し下さいませ、ジール様。どうしていいのか分からなくて……」
 タチアナはその大きな目から涙をぽろぽろとこぼしている。
 「ソフィーダ様、どうするのですか?」
 レーゼはまだ警戒を解いておらず、ソフィーダをかばうように自分の身体を前に乗りだしたまま、そっと聞いた。
 「…どうするもこうするも…」
 殺すのは簡単だ。死ぬなら死ぬで、一向に構わない。
 ただ、引導を渡すのが自分となると、また話は別である。
 アードに素直に渡すか、殺すかの二択。
 正直に言えば、「どっちも嫌」というのが本音のソフィーダだった。
 体よくジールかサラディンに押付けて、追い返すつもりであったのに。
 「とにかく、ここは下がるぞタチアナ!全くマジェスティーナの御前でなんという………」
 「嫌です、死を命じられるかアード様のもとへ連れて行っていただくまでは、私……!!!」
 無理矢理にタチアナの手を掴んで立たせようとするジールに、タチアナは激しく抵抗した。が、その場に居合わせた帝王妃付きの人間達も、ただ黙って見ているわけではない。タチアナはあっという間に数人に囲まれ、短剣を取り上げられ、今しもひったてられようと、
 「よう、ソフィーダ。騒がしいな、どうした?」
 「マジェスティ!!!!!」
 ソフィーダは思わず叫んだ。
 最悪の、間である。
 そこに現れたのは帝王アード・アル・レストその人であった。
 「か、軽々しいにも程がありますわ!なんですの、先触れもなく!」
 「なんだよ、いいじゃんか。たまたま近くを通ったらなんか騒がしかったから。どうした?」
 「御主人様!!!」
 タチアナがひときわ大きな声で叫び、周りの者たちの一瞬の隙をついてアードに飛びついた。
 「んえっ!?タチアナ!?なんだってここにいるんだ?」
 そう言いながらも、条件反射でしっかりとタチアナを抱きしめるところがアードである。
 「御主人様、お会いしたかったですわ!ああ、何て嬉しい………!!」
 「いや、俺も嬉しいけど…一体これはどういうことなんだ?」
  「マジェスティ」
 腹をくくったジールが、元の通りうつむいて声をかけた。
 「お、ジール。……ああ、なるほどお前か。タチアナを連れてきたのは」
 「そうです。…が、とんだ騒ぎになりまして…」
 「うん、なんだかよく分からないが、大変みたいだなあ」
 「呑気なことをおっしゃっている場合ではありません」
 「じゃあどういう場合なんだ?」
 「…それは…」
 言いかけて、ジールは困った。代わりにタチアナが、
 「マジェスティでしたのね、御主人様」
 「あ、ああ。黙っててすまない。色々と事情が」
 「マジェスティーナと寵を争える私だとお思いですの?ひどいですわ」
 「いや、そういう問題じゃなく…まあ適当に仲良くやってくれれば…」
 「私は勿論、喜んでマジェスティーナにお仕えするつもりですわ。お許しさえ、あれば。とにかく、御主人様のおそばに居たいのです。居させて下さいませ。…でなければ、この場で死ぬ許可をお与え下さいませ」
 「可愛いことを言うなあ、おい」
 好みの美女にこんなことを言われて、くらくらとこないアードではない。
 「ソフィーダ」
 「…なんですの?」
 すっかりないがしろにされていたこの部屋の主は、感情を無理矢理押し殺した声で返事をした。
 「なんだかよくわからんが、とりあえずタチアナもこう言ってることだし、なんとかならないか?」
 「なんとかって…」
 「お前に迷惑はかけないからさ。せっかくサラディンが俺にくれるっていうんだし。警察総監からの献上物ってことだし。な?」
 「迷惑は、かけない…」
 今、十分迷惑なのだがその辺はなんとかならないだろうか。
 だが、ここで下手に嫌だなんだと言えば、状況はますますタチアナに有利になる。
 「…………」
 ソフィーダが黙っていると、アードはタチアナを離し、つかつかとソフィーダに歩み寄った。
 何も言わずにいきなりソフィーダを抱きしめる。唇を重ねる。
 「んん…っ」
 「ソフィーダ?」
 ようやっと離すと、頭を撫でる。
 「…マジェスティ…」
 ずるい。
 「あのな。
 俺が言うのもなんだが、今、お前が反対する理由ないだろ。必死で探してるところだ。違うか?」
 そしてこういう時に限って無駄に頭の回転が早い。
 「…」
 「じゃ、とりあえず理由が見つかるまででも、この奴隷は警察総監サラディン・ルールより帝王への献上物として受け取らざるをえないな?」
 「………」
 「国の繁栄にも関わるんだぞ?世継ぎの王子はまだいないのだからな。産むための妾は多いに越したことない、だろ?」
 「…………」
 「昨日、好きにしろって言ったばっかりだしな?」
 反論。したいが出来ない。
 アードが、にやっと笑った。
 ソフィーダの頬を軽くはさんでキスをし、それから他の者に向き直る。
 「よし。じゃあ決まりだ。侍従、タチアナの部屋の用意を。それから五の大臣、警察総監に誉れの衣と金蔵からこの奴隷の代金の5倍、デュラン金貨を。いいな?」

 かくしてタチアナは、当代の帝王、アード・アル・レストの後宮に納まることになる。
 このことがやがて大きな出来事のきっかけとなるのだけれど、それはまた次のお話。
 今は一度、目をとじて。
 やがて語られるときに備えて、少しおやすみ。

 目覚めたら、大きな物語があなたを待っているから。

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