そして次の日、私は王太子妃の部屋に伺う準備をした。なるべくこざっぱりした見苦しくない服を着て、初めて軽くお化粧もしていた。なんか少し大人になったようで、嬉しかった。
朝ご飯はいつものようには食べられなかった。やっぱり少し緊張していたらしい。しかし母はもっと食べられていなかった。
後宮に向かう途中、母は小声でくどくどともう何度も言ったはずの心得を私に言い聞かせた。私は正直うるさいなあ、と思いながらただうなずいていた。
いよいよ後宮にたどりつくと、奴隷頭が先導した。
後宮に入るのは初めて。さすがにここでははっきり緊張しているのがわかった。何しろ、子供の頃から入ってはいけないと固く禁じられている場所だ。
中の壁や柱は美しいタイルで装飾されており、目を奪われるところだった。すれ違う奴隷達は皆自分よりも場慣れしていて(考えたら当たり前なのだけど)、気後れした。自分の前を歩いている母さんでさえ、何だか他人のようだった。後宮に入ってから、母さんは一言もしゃべらなくなったのだ。
後宮の割と奥の方まで入り込むと、奴隷頭が一つの部屋の前で足を止めた。入り口には綺麗な織物がかかっていて、中は伺い知れない。ここが王太子妃の部屋なのか、と私は我知らず身を固くした。
「少し待っていろ。王太子妃にお伺いをたててくる」
母がうなずくと、奴隷頭はその織物の中に入っていった。
帳の向こうには、沢山の人の気配がする。そういえば王太子妃には常に30人からの奴隷がついていると聞いた。30人…30人…。
それが全部居たらどうしよう、と思う間もなく奴隷頭が帰ってきた。
「お許しが出た。中に入れ」
奴隷頭の言葉に誘われて、私と母は中に入った。
中は、全く綺羅の空間だった。
想像もつかなかった美しい部屋。
恐れていた通り、30人からの奴隷はずらっと控えている。よく見れば知った顔の奴隷達だったけど、私が普段接している時とは全然違った。
磨き上げられた大理石の床。よく分からないけれど高そうな調度品。綺麗な飾り窓。
そしてその中央にいらしたのが王太子妃…のはずなのだが、部屋があまりにも広いのとぶしつけに見てはいけないとやかましく言われたので、目に入った途端うつむいてしまった。
一瞬姿を拝見して綺麗な方だな、と思ったのはご婚礼の時と同じ。
その王太子妃は長椅子に優雅に腰掛けていらした。
そして奴隷頭が止まり、つられて母さんと私も止まる。母さんと私は床にひれ伏した。
奴隷頭はまた歩いて王太子妃の元へ向かい、なにやら言っている。もうこの頃の私はどきどきして、何も考えられなかった。
その時、頭の上から涼やかな声が降ってきた。
「顔をお上げなさい」
母さんが顔を上げる気配がした。それから慌てて私を小突く。
わ、私もか。ぎくしゃくと顔を上げた。
目の中に飛び込んできたのはあまりに美しい人だった。
遠くから見ることしか叶わなかった王太子妃は、まさに私の眼前(といっても距離にして3メートルくらいはあったけれど)にいた。
にっこり、と笑ってらした。
小さなお顔に、少し切れ長の大きな目。眉はすんなりと弧を描き、鼻筋も綺麗に通っている。唇は美しい紅色で、間からわずかに真珠のように美しい歯を覗かせている。
ゆるく波打った御髪はたっぷりと腰までもあり、つややかだった。
お召し物はといえば、さすがにご婚礼の時ほど豪華ではないにしろ、私など見たこともないような豪奢なものだった。
あまりのお美しさに私は本当にぼうっとするしかなかった。
母が何度も小突いてくるのは分かったが、到底対王太子妃への正式な口上など出てこなかった。私は陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせていただけだった。
果たして、王太子妃の笑みがいたずらっぽく変わった。
「可哀想に、緊張しているのね。楽にしてよいのよ。代わりに母に答えてもらいましょう。その子の名はなんというの?」
「レーゼと申します」
母の声は震えていた。
「レーゼ。可愛い名前ね。年はいくつなの?」
「11でございます」
「まあ、わたくしより4つも年下なのね。可哀想に、それでは無理もないわ。普段はこんなに無口ではないのでしょう?」
「は、はい…」
母がすっかり恐縮しているのが手に取るように分かり、私はかえって落ち着いてきた。
その様子を王太子妃は察したらしい。
「そろそろいいかしら、レーゼ?」
「はい」
私はやっと声を出した。
「慈悲深きダルリーヴァ、幸いの御母、御身の上にカリューンの恩寵と平安あれかし」
一瞬、周りが妙な雰囲気に包まれた。私はなぜだか分からなかった。
…あとで知らされたのだが、私は間違ったのだ。呼称は合っていたものの、これは対帝王妃の口上だ。
王太子妃は一瞬きょとんとされたあと、笑い出した。
「可愛い。気に入ったわレーゼ。こちらにいらっしゃい」
私は深く考えもせず、呼ばれるまま王太子妃に近づいた。
「もっと」
王太子妃が催促され、私はとうとう頬に御手があてられるまで近づけることになった。
それにしても、近くで拝見するとすごい。すごい、という形容も変だが、すごいとしか言いようのない美貌だった。
「どうしたの、レーゼ?」
「えと…」
「なあに?」
「綺麗だったので…」
「何が?」
「ダルリーヴァが」
「わたくしが?ありがとう」
言って王太子妃はまた笑った。「花のように笑う」という形容の見本を見る思いだった。
「ますます面白い子だわ。ねえレーゼ、わたくしに仕えてくれる気はある?」
「えっ…?」
私はまた面食らった。意志を聞かれるとは思いも及ばなかった。
「仕えさせていただけないのですか?」
逆に質問するという暴挙に出てしまった。
「わたくしは是非側にいて欲しいわ。可愛いし、面白いのですもの。気に入ったわ。ねえ、ヴァン・レーゼ?」
「…?ヴァン?」
「古い言葉で『可愛いもの』とか『小さいもの』という意味よ。思いつきだけど、似合ってると思うわ。どう?」
早くも愛称を頂戴してしまった。今思うとそれがどれだけたいそうなことかよく分かるのだが、当時の私はありがたみをちっとも分かっていなかった。
「あ、ありがとうございます…」
とにもかくにもお礼を言えたのは僥倖に近い。
「じゃあレーゼ、わたくしのことも名前で呼んで頂戴。ここに来てから『ダルリーヴァ』とばかり呼ばれるので、本名を忘れそうなの」
そのときの私は王太子妃の冗談に反応することもできず、ぼうっとしていた。だいたい、あまりにお綺麗な顔に見とれていて、涼やかな声に聞き惚れていて、ふんわりといい香りを嗅いで酔っぱらったようになっている。
「ソフィーダ様」
私は熱に浮かされたようにつぶやいた。
「そうよ、ヴァン・レーゼ。ありがとう」
ソフィーダ様は、完璧に微笑んだ。
母はそのときのことを思い出すと、随分後でも「胃が痛くなる」と言っていた。
私も、後宮のことが分かってくるにつれて消え入りたくなるような気持ちにおそわれる。
やがてソフィーダ様は王太子妃から帝王妃になられ、帝王アード様とともにレスト・カーン及びカリューン信徒の為に尽くされることになる。
私はそのままソフィーダ様に仕え、ありがたいことに相変わらず「ヴァン・レーゼ」と呼んでいただいているのだが、ソフィーダ様は勿論その名を下さった時のことを忘れて下さらず、時々そのことでからかわれているのだった。
「初めて会ったときにレーゼはわたくしのことをマジェスティーナになると保証してくれたのですものね。わたくしがマジェスティーナになれたのも、レーゼのおかげかもしれないわ。ありがとう、ヴァン・レーゼ」
「ソフィーダ様、そのことはどうか」
「あら、何故?わたくしは何度お礼を言っても言い足りなくてよ」
「………」
「それともレーゼ、あれはただのお世辞だったの?だとしたらわたくしは悲しいわ。今日の夕食は冷やした柘榴しか喉を通らないかもしれない。どうしましょう」
「…御夕食後に柘榴ですね。料理人に申しつけておきます」
だいたいこんな調子なので、ソフィーダ様にお仕えするようになってから程なくして母は病気で亡くなったのだが、私の悲しみはそれほど長く続かずにすんだ。
ソフィーダ様にお仕えしているのだから。
母の言ったとおり、全くそれは幸運なことだった。
ヴァン・レーゼ。
この名と共にずっとずっとソフィーダ様にお仕えし続けることが、私の喜びであり生き甲斐なのである。
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