帝王妃ソフィーダ
外伝
レギオン家のソフィーダ

 馬がこんなに揺れるものだとは思わなかった。昨日乗った輿とは大違いだ。がくんがくんと揺れ、どうにかなりそうだ。  
  だが律儀に約束通り、動かず、喋らず、しっかりと捕まっている。早くムスティールに会って連れ戻してこなければならないのだ。  
  果たしてその駿馬は、あっというまにソフィーダを王宮まで運んでくれた。  
  祭祀所はカリューンを奉る場なので、一般市民でも比較的自由に入れるがやはり身元は詮索される。  
  男は祭祀所に近いところで馬を止めた。  
  自分が降りてから、ソフィーダをゆっくりと抱き下ろす。
 「ありがとう…」
 捕まっていただけなのにすっかり疲れ切ったソフィーダは、それでもお礼はきちんと言った。
 男は首を振ると、祭祀所の衛兵に少し頭を下げる。
 「サラディン殿、そちらのお子は…?」
 「さあ。市中で泣いていたので連れてきた。こちらに用があるようだ」
 「それはそれは」
 衛兵は笑ってしゃがんだ。ソフィーダと同じくらいの目線になる。
 「お嬢様、こちらに何の用なのかな?お名前は?」
 小さい子相手の口調がソフィーダは一番嫌いだったが、この際そうも言っていられない。
 「お兄様を探しに来たの。わたくしの名前はソフィーダ・レギオン。お兄様の名前はムスティール・レギオン」
 これには衛兵も、サラディンと呼ばれた男も吃驚した。
 「レギオン!?ま、まさかお嬢様、お父様のお名前は…?」
 「リヤド・レギオン。二の大臣です」
 大変なことになった。
 「サラディン殿、これは一大事ですぞ」
 「そうだな」
 「呑気なことを言わないで下さい。下手をしたらサラディン殿は誘拐の罪に問われるかもしれませんぞ」
 「そうしたら自分で自分を捕まえるまでだ。俺の仕事は市中警護なのだから」
 笑えもしない冗談を言うと、サラディンはソフィーダに向き直った。
 「兄君がこちらに?」
 「多分」
 「こんな朝早くから?」
 「だって、おうちを出て行ってしまったのですもの。ここには居ないの?」
 サラディンと衛兵は顔を見合わせた。
 「そういえば今朝、学校の方が騒がしかったような…」
 「君はご子息を見なかったのか?」
 「先程夜勤の者と交代したばかりなので。ちょっと確かめてきましょう」
 衛兵は中に駆けていった。
 後にはサラディンとソフィーダが残される。
 そういえばいつのまにか涙が乾いていた。
 「二の大臣の娘御だったのか」
 ソフィーダはうなずく。
 「もうこんなことはしない方がいい」
 「なぜ?」
 「世の中は善人ばかりではないから」
 「?」
 「…世の中は、いい人ばかりではないから」
 「ああ、そういうことね」
 にっこりとソフィーダは笑った。
 「大丈夫。いい人に連れてきてもらうから」
 「いい人に会えるとは限らない」
 「だってあなたはいい人なのでしょ?」
 「…それは分からないが」
 「ところであなた、誰なの?」
 「サラディン・ルール。市中警護を仰せつかっている」
 外に出ないソフィーダは知らなかったが、サラディンが着ていた服はまさに警察の制服であった。
 「サラディンね。ありがとう」
 「困った市民を助けるのは俺の仕事のうちだから、気にしなくていい」
 「あら、お仕事中だったの?」
 サラディンは黙ってうなずいた。
 「じゃあ、お仕事に行かなくていいの?」
 「帰りはどうするつもりなんだ?」
 「あ」
 ソフィーダは目を見開いた。そんなことは全く考えていなかった。
 「お兄様も一緒に、お馬に乗ることは出来る?」
 「三人はちょっと無理だ」
 「それじゃあ、困るわ…」
 何のためにきたのかと言えばムスティールを連れ戻しにきたのだから、自分だけ帰っても仕方がない。
 ソフィーダは少ししゅんとするも、どうにかなるだろうと思い直した。
 今はとにかく兄を連れ戻すことの方が先決だ。
 ― お兄様、遅いな…。
 もしかして来てくれないのかしら、と不安になったとき、衛兵が駆けていった方に兄の姿が見えた。
 鬱金色のローブを着ている。
 「お兄様!」
 ソフィーダはあっというまに泣き出しながらムスティールに駆け寄った。
 「ソフィーダ、どうして…」
 ムスティールはとまどいながら膝を折り、ソフィーダをしっかりと抱きしめる。
 「お兄様、おうちを出ては駄目よ。お母様も泣いてるしお父様は怒ってるわ。わたくしもいやよ、帰りましょうお兄様」
 兄の背中にしっかりと腕を回し、ソフィーダは一生懸命に言った。
 「ごめんね、それはきけない。昨日の夜ちゃんとソフィーダにはお別れをしたんだけど…眠くて覚えていなかったんだね。ごめんよ」
 「いや。おうちに帰るの」
 ますますはげしくソフィーダが泣くので、ムスティールはそれ以上何も言わなくなった。しばらくの間、ゆっくりとソフィーダを抱きしめたまま、背中をあやすように軽くたたく。
 「お兄様…」
 「ソフィーダ。そのままでいいから、何も言わずに私の言うことを聞いて。いいかい?」
 少し泣きやんできたソフィーダは、うなずいた。
 「私はね、ずっと神官になりたかった。大臣になるより、神官になりたかったんだ。 カリューンの御業についての研究をしたいんだ。
 でも父上は絶対に反対なさることは分かっていた。だからずっと迷っていたんだ。
 昨日祭祀所に来て、大神官様とお話をしてやっと心が決まったんだ」
 兄がそんなことを考えていたなんて、ソフィーダは全く知らなかった。
 「だから決意が鈍る前に、父上が強硬な手段に訴える前にここに来ることにした。もう神官見習いとしてこの衣を賜ったから、父上でも母上でも、…ソフィーダでも、私を家に連れ戻すことは出来ないよ」
 「そんな…」
 「ごめんね。だけど、年に二回は…父上のお許しが出れば家に帰るし、ソフィーダはいずれ王宮に来るから、ずっと離ればなれになるわけじゃないんだよ」
 「わたくしが王宮に来るの?」
 「うん。ソフィーダはマジェスティーナになるから」
 帝王妃。
 確か、帝王の奥さんのことだったはずだ。
 ソフィーダはものすごく困った顔をする。
 「じゃあわたくし、昨日の…あの…お会いしたマジェスティのお嫁さんになるの…?」
 「え?いや、そんなことはないよ。そうじゃなくてあの方の第一王子であらせられる、アード様のお嫁さんになるんだと思うよ」
 少しほっとした。昨日の、あのちょっと怖いおじさんのお嫁さんになるのは困る。
 「だからソフィーダはおうちでいい子にして、良いマジェスティーナになれるように勉強するんだよ。そうすれば早く王宮にこられる」
 「王宮に来たら、お兄様に毎日会える?」
 「毎日かどうかは分からないけど、年に二度よりはもう少し会えると思うよ」
 「………」
 ソフィーダは涙を止めて少し考え込んだ。
 いつも優しく、たいていの我儘はきいてくれる兄が、この件に関しては全く譲る気がないというのは分かった。
 兄に会えるようになるためには早く王宮にこなくてはならない。
 「わたくし、どうやったら王宮に来れるの?」
 「どうやったら…」
 至極もっともなその疑問に、ムスティールはしばらく考え込んでから慎重に言った。
 「カリューンにきちんと毎日お祈りして、父上や母上の言うことをよくきいて、いい子でいれば大丈夫だよ」
 既にソフィーダは王宮にくるどころか、ほぼマジェスティーナになることが決まっている。深く考えたわけではないが、こういう言い方をしたのはムスティールの優しさだった。 「お前の人生はもう先の先まで決まっている。他の人生を望んでもそれは絶対にかなえられないのだから、おとなしく決まった道を歩め」と言われたら、彼女は絶望するしかない。
 でも、もしその決まった道が彼女自身の夢や目標になったら、それはものすごく恵まれた人生ではないか。
 ソフィーダは自身で分からぬうちにそんな幸運を手にしていた。
 彼女は兄から離れ、じっとその端正な顔を見つめて言った。
 「じゃあわたくし、頑張るわ」
 「うん。私もいい神官になれるように頑張る。ソフィーダが王宮に来る頃には、胸を張って拝謁出来る神官になっているよ」
 「きっとよ」
 やっと笑顔になる。ムスティールも笑顔になり、可愛い妹の頭を撫でた。今日はきちんと結っていないので、普通に撫でても大丈夫だ。
 「それからソフィーダ。もう黙ってここへ来てはいけないよ。分かったね」
 「はい」
 「カリューンに誓って、私と約束できるね?」
 安易に「はい」と言ったソフィーダは途端に困る。
 カリューンに誓う約束は、信徒にとって最も重い。これを破ったら地獄の業火に焼かれるのは、カリューン信徒なら三つの子供でも知っている。
 ソフィーダの性格を、ムスティールはよく知っていた。昨日も待っていると約束したのに結果よければ全てよし、で追いかけてきた妹である。このくらいの約束をしなければまた来ることは必至だった。
 「…どうしても?」
 「どうしても」
 「………はい」
 うつむきながら、蚊の鳴くような声でソフィーダは誓った。
 「ありがとう。いい子だね、ソフィーダ」
 「そろそろ、いいか」
 不意に他人の声がした。驚いたムスティールが見上げると、岩を削りだしたような無骨な顔の男が、兄妹を見下ろしている。
 「あなたは…?」
 「あ、ごめんなさい」
 ムスティールにはさっぱり分からなかったが(警察であるということくらいは着ているものから分かったが)、妹の方がさっぱりとそう言ったのでますます驚いた。
 「ソフィーダ、この方は?」
 「連れてきてもらったの」
 「…誰?」
 「サラディンって言うんですって」
 ― サラディン…。
 妹があまりにさらりというので、ムスティールは思い出すのにだいぶ時間がかかった。
 「サラディン・ルール殿ですか!?」
 「あらお兄様、知っていたの?」
 「知ってた…というか…。有名だから。レスト・カーンで一番剣の強い方だよ」
 平民出身ながら、弱冠十七歳でレスト・カーン全土規模の剣術大会に優勝したサラディン・ルールといえばかなりの有名人であった。しかも今年は連覇を果たし、帝王の覚えもめでたい。市井の一警官から出世の階段を駆け上がりながら、驕り高ぶらない謙虚な人柄でも知られている。
 「まあ…強い人だったのね」
 ソフィーダは目を丸くして、改めて自分を連れてきてくれた人を見た。どう見ても王子様のような綺麗な顔はしていないし、ちょっと怖そうではあるけど言われてみれば確かに強そうだ。
 「たまたま大会で優勝しただけだ。一番強いとは限らない」
 「一番強い人を決めるために大会があるのですから。まだお若いのですし、これから何連覇なさるか分かりませんしね」
 「お兄様、この方若いの?」
 「えっ?」
 突然の疑問に、ムスティールは面食らった。
 「わ…若いよ。確か私より五つ年上なだけだったと思う」
 「ええっ!」
 妹のあまりの驚きように、かえってムスティールはどう取り繕っていいのか分からず立ち往生してしまった。
 「…すみません…」
 「慣れているから気にするな。それより、その姫君はもう送っていって構わないのか」
 「あ、はい。すみません、お仕事中に。申し訳ありませんが宜しくお願い致します」
 サラディンはひとつうなずくとソフィーダを抱き上げ、また馬に乗せた。
 「お兄様、元気でね」
 ムスティールはにっこり笑ってうなずいた。上から見ても、やっぱり端正な顔立ちの兄で、鬱金色のローブがよく似合った。

 それからレギオン家の兄妹はそれぞれの道を歩むことになる。
 ムスティールは神官として祭祀所での地位を着実に上げ、重要な国事に携わるまでになる一方、神学の権威としてもその頭脳を遺憾なく発揮し、数々の名著を世に送ることになった。
 ソフィーダはそれから八年後に王太子妃として後宮に入る。その後王太子アードの帝王即位に伴い、カリューン信徒の女性最高の栄誉である帝王妃の地位に就いた。
 時を経ても兄妹の情愛は変わらず ― その情愛ゆえ、後に歴史書にはこう刻まれる。

 「帝王妃レ・アル・ソフィーダ、カリューンと兄ムスティール・レギオンの助けを以て千年に一度の御業を起こし、フィオルナの侵攻よりレスト・カーンを救う」

 ―と。
 

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