一年の約束

 

 2.


 セルジオが旅立つ前夜。
 今の季節は晩夏である。真夏よりはましとはいえ日中はそれなりに気温も上がり、旅には向かないことから、朝早くセルジオが出立することが決まっていた。
 それに合わせてマリアとセルジオは、早めに寝ることにする。
 …正確には、早めに寝室に入ることにする。
 すぐに寝つけるものでもない。
 今夜ばかりは、明かりをつけたままベッドの上に座っていた。
 「セルジオ様…」
 かえって何を言っていいのか分からない。
 「マリア…その…1年は長いと思うけど…。とにかく、身体に気をつけてね」
 「ええ。セルジオ様こそ、慣れないところにゆかれるんですもの、お気をつけて」
 「…手紙は、書いても構わないよね?」
 「そのくらいなら、きっとお父様も許してくださいますわ。きっと、下さいませね?」
 「うん、マリアも…」
 「勿論ですわ。セルジオ様がうっとおしがるくらい、沢山書きます」
 二人は見つめあって笑った。
 「サッカルー様は、どんな方なんでしょうね?」
 「父上も、『会えば分かる』って言ってあまり教えてくれないしな…よくわからないけど。
 父上の友達なら、きっといい人だと思う」
 「それはそうなのですけど…」
 「大丈夫、着いたらすぐ知らせるから」
 「はい」
 「…マリア…」
 セルジオはちょっと拗ねた顔をした。
 「何ですの?」
 「本当に、平気?」
 「…?どういう意味ですの?」
 「僕と1年も会わなくて、平気?」
 「セルジオ様」
 マリアは少し怒った顔をして、セルジオの頬を両手で挟んだ。
 「平気なはず、ありませんわ。
 でも、何とかなるような気がしますの。1年の間、私はセルジオ様に負けないように何かしないといけないんですもの。そういうこと考えたりやったりしているうちに、きっと1年なんてあっという間に過ぎてしまいますわ。ね?」
 「…」
 「私、結構楽天的ですの。クスコにお嫁に来るときも、お母様ばかり心配して、私は案外平気でしたわ。でもこんなに幸せになったんですもの。きっとこの1年も、あとから思えばいい1年になるに違いありませんわ」
 「そうだといいけど…」
 「ね?」
 そっとセルジオの頬にキスをする。セルジオはそのままマリアを捕まえ、頭を撫でた。
 もう、セルジオの方が少し背が高く、肩幅が広い。
 すっぽりとおさまる、とまではいかないが身体をあずけられるくらいではあった。
 「セルジオ様…」
 マリアはしばらくの後、きっぱりと言った。
 「キスして下さいませ」
 「は!?」
 セルジオは顔を真っ赤にする。マリアはセルジオの胸から顔をあげ、猫のような瞳で見つめた。
 「…」
 「お願い」
 「ど、どうしたの」
 「ちゃんと、キスしておきたいんです。お願い」
 「構わないけど…ちゃんと、ってどういうの?」
 「ちゃんと、です」
 言うなりマリアは目を閉じた。
 「…」
 セルジオはよく分からないまま、そっとくちづける。
 マリアが抱きついてきた。
 何となくセルジオの中にも感情があふれてきて、マリアを抱きしめ返した。
 そのまま長い、不器用なキスの後、2人は離れて見つめあった。
 「これで大丈夫。私は、お帰りまでちゃんと待てますわ」
 「そう?」
 「はい。…ではおやすみしましょう、セルジオ様。明日は早いですわ」
 「…」
 この時のセルジオには、正直このキスの意味を全部理解することは出来なかった。
 彼が理解するのは、もっと後の話になる。
 とにかく、夜が更けた。

 

 出立の朝。
 よく晴れた朝だった。
 メルメ1世、マリアは勿論のこと、城の色々な人に見送られて、王子は旅立つことになった。
 供の者は7人。まあ、クスコらしい数字と言えた。セルジオもまるっきりのお坊ちゃんではない。
 城門にて、城の者たちとの別れの挨拶が行われた。
 「身体に、気をつけてな」
 「うん。父上こそ、気をつけて」
 「お前より丈夫だ、気にするな」
 「じゃあ気にしない」
 いつも通りの親子のやりとりが行われた後、王子は最愛の妻に向き直った。
 「…マリア」
 「はい」
 「行って来るよ」
 「はい」
 マリアは笑った。
 「マリアはちゃんと、お帰りをお待ちしてますわ。
 元気で帰ってきて下さいませね」
 「うん」
 セルジオも、つられて笑った。
 「王子、そろそろ…」
 供の者がうながす。うん、とセルジオはひとつうなずき、馬にまたがった。
 「じゃ、行って来る」
 「セルジオ様、いってらっしゃいませ!」
 「お元気で、王子!」
 「お気をつけて!」
 城の者達が口々にいう言葉に、セルジオは片手をあげて応え、その勢いで馬を出立させた。
 城門を出、朝まだきの城下町へ向かう。
 …まだ間に合う。
 「マリア様!?」
 「マリア!?」
 マリアはその途端、弾かれたように物見台に向かって走っていた。
 こんなに走ったのは初めてだったかもしれない。
 物見台に着き、ドレスの裾を持ち上げながら階段を駆け上がる。
 息が切れて、途中で足が止まる。
 ─ でも…!!
 まだ、間に合う。
 気を取り直してマリアはもう一度階段を駆け上がり、ついに物見台のてっぺんまでたどりついた。
 「マリア様!?」
 見張りをしていた兵士が、さすがにびっくりした顔でマリアを見たが、そんなものマリアの目には入らなかった。
 ここからなら、城下町が見下ろせる。城下町の門が見える。
 マリアは懸命に探し、見つけた。
 セルジオの乗った馬。
 今にも城下町を出る。
 城下町を出て、平原を走り、サッカルー公爵の領地へと向かう。
 見えなくなるまで、ここで見ていたかった。
 「…なるほど、こういうことか」
 いつの間に追いかけてきていたのか、メルメ1世がマリアの隣にいた。
 「まだセルジオが見えるね。
 …まだ…」
 セルジオの乗った馬は、そう言っている間に平原をずんずん走っていった。
 「急ぐ旅でもないんだから、もうちょっとゆっくり走らせればいいのに。あれでは馬がもたないな、全く」
 「ほんとですわ。あんなに走ったら…走ったら、すぐお姿が見えなくなってしまう…」
 マリアの声に微妙な湿り気を感じ、メルメ1世は隣のマリアを見た。
 彼女は、心からの想いを抱きしめて、セルジオの姿を見ていた。
 「ねえ、お父様」
 「ん?」
 「…そろそろ、泣いてもいいですか?」
 「…マリア」
 言うなりマリアはぽろぽろと涙を流していた。
 セルジオがサッカルー公爵の元に行く、という話が出てから一度も見せたことのない涙だった。
 「…よく、我慢してくれたね。ありがとう」
 ぶんぶん、とマリアはかぶりを振った。
 堰を切ったように想いがあふれる。
 「…かないで」 
 「え?」
 マリアの頭を撫でようとしたメルメ1世は、思わず手を止めた。それ以上、動けなかった。
 彼女は構わずに、涙をこぼしながら次々と言った。
 「行かないで、私を置いていかないでセルジオ様。戻ってきて下さい、マリアを一人にしないで。
 ひとりにしないで。嫌です、離れるのは嫌ですから、帰ってきて。行かないで。
 1年も…1年もマリアを、ひとりにしないで………行かないで…行かないで、いかないで……………」
 どんなにどんなに言いたくても言えなかった、そして言ってはいけなかった言葉たちが次々とマリアの口をついて出た。
 涙とともにあふれてあふれて、止まらなかった。
 そしてその涙で霞んだ瞳に、いつまでもセルジオの乗った馬が見えているような気がした