一年の約束

 

 6.

 カテジナの朝は早い。侍女としては当然だった。
 きちんと身だしなみを整え、まずは掃除から始める。今日の自分の当番は、城の入り口付近だ。
 掃除をするときの常として、入り口の扉を全て開け放つ。
 朝のさわやかな空気が城の中に流れ込んでくるこの瞬間は、割合好きだった。
 「あ、雨が止んでる」
 3日間降り続いた雨は、ようやっと止んだようだった。それでも朝もやが濃いおかげで、視界は悪い。カテジナはモップを手にしたまま、大きく伸びをした。
 「ん?」
 城門のあたりが騒がしい。
 どうしたんだろ、と思う間もなく一頭の馬があっという間に入り口付近に乗りつけた。
 「!!?」
 ひらり、と馬の上から人が降りる。
 「やあ、カテジナ。久し振り。ごめんよ、掃除中に、こんな泥だらけで」

 

 結局明け方まで上手く寝つけなかったマリアは、うとうとと夢を見ていた。
 セルジオ様が帰ってくる。
 どういうわけだか、一人だ。
 城門を過ぎ、建物のすぐ近くまで馬で乗りつける。
 ─ ああ、お帰りになった。

 

 「セルジオ様!?何故こんな急に…先触れも来ておりませんぞ!?」
 「当たり前だ、出してないよ」
 「陛下はまだおやすみ中です」
 「いいよ、起こさなくて。あとで行く。それよりこれを預かってくれ」
 びっしょりと濡れ、泥だらけになったマントがばさりと投げられた。
 城門からの急な連絡を受け、慌ててかけつけた侍従はマントを抱えたままセルジオを追う。
 「あと、これも」
 脱いだ鎖帷子も放られた。
 「セルジオ様!」

 

 廊下をどんどん進む。
 城の入り口から私の部屋までは、かなり遠いわ。
 でもセルジオ様はまっすぐいらしてくれる。
 その階段を登って、そこの角を曲がって。
 あ、そこの角には動かしたばかりの壺が。

 

 「なんだこれ、ぶつかるところだった。危ないな。何でこんなところにあるんだ?」
 「セルジオ様!?」
 掃除をしていた侍女が驚いた顔を向ける。
 「静かにして。マリアが起きないように。それにしても1年もいないと、物の配置くらいは変わるものなんだな」
 「それは先日、陛下が西の廊下よりこちらの方が置き場に相応しいとおっしゃられて…」
 「そうか」

 

 それから、渡り廊下を過ぎて扉を開けて。
 また階段を登って。
 セルジオ様が私のもとへ、いらっしゃる。
 最後の扉 ─ 寝室のドアを開けて、入ってらして。私が眠っているベッドに近づいて、そっとキスを…。

 

 キス!?
 マリアは目を開けた。
 唇が重ねられている。
 「…」
 マリアの上にそっと覆いかぶさっていた人影が退いた。
 ベッドの横に立て膝をついている。
 「…セルジオ様…?」
 「ただいま、マリア」
 記憶にあるよりも低い声で、彼はそう言って笑った。
 「セルジオ様!?」
 飛び起きる。
 「うん」
 セルジオは立ち上がった。
 「…」
 マリアは息を飲んだ。
 1年前より遥かに背が伸びている。多分もうメルメ1世を越しているだろう。
 少し伸びた銀髪は雨露にしっとりと濡れていた。蒼い、意志の強い目は変わっていないが、顔つきは随分精悍になっている。日にも灼けたようだ。
 王子は、少年からはっきり青年に変貌を遂げていたのだった。
 マリアは心臓がドキドキするのを抑えられなかった。一瞬で心を奪われた。
 自分の夫に、もう一度恋をした。
 「セルジオ様………」

 

 起き上がったマリアを見て、セルジオの胸も高鳴っていた。
 記憶にあったより、尚一層美しい。
 しかし、こんなに小さく華奢な人だっただろうか。
 触れたら壊れそうだ。
 「マリア」
 大きな蒼い目が自分を見ている。
 マリアの目だ、とセルジオは嬉しくなった。

 

 「セルジオ様、セルジオ様ですのね?」
 「うん」
 「本当に…?…お座りになって」
 マリアはセルジオの手を引っ張り、ベッドに腰かけさせようとした。
 「あ、いや。雨の中をずっときたから濡れてるし、泥もついてる。汚いから駄目だよ、マリア」
 「駄目です」
 そんなことはどうでもよかった。マリアは強引にセルジオをベッドに座らせた。
 引っ張ったその手も前よりずっと厚みが増し、大きかったのにも驚いたが。
 「セルジオ様…」
 「…そんなに見られると所在ないな。ただいま、マリア」
 「本当に、本物のセルジオ様…?」
 「そうだよ。何で?」
 「だってだって、1年前と全然違ってらして…」
 「そうかな」
 「そうですわ。背もこんなに伸びられたなんて、お手紙のどこにも書いてなかった…」
 「自分ではそんなに伸びたつもりもないんだけど…1年前と比べたら伸びたのか。マリアだって綺麗になって…前から綺麗だったけど、こんなに綺麗だなんて。ずるいよ」
 「ずるいのはセルジオ様ですわ!」
 マリアはとうとうセルジオに抱きついた。
 抱きつくと、また吃驚する。自分はもうすっかりセルジオの腕の中に収まってしまうのだ。
 セルジオにしっかりと抱きつき、また抱き返されながらマリアはセルジオの耳元で囁くように言った。
 「今朝お帰りになるなんて、聞いてませんわ」
 セルジオも、マリアの耳元に囁き返す。
 「言ってなかったから」
 「どうして?」
 「吃驚させたかった。あと、供から無理矢理逃げ出してきたから、先触れなんて出している場合じゃなかった」
 「逃げてきた?」
 「この雨だったから、ずっと足止めを食うところで。危ないから行かせられないって言われたんだけど、僕は一刻も早く帰りたかったから。説得が無理そうだったから、逃げてきた」
 「そんな、無茶をなさって…」
 「酷かった。最初はいきなり気絶させられたよ。起きたらしっかりと部屋に鍵がかけられてて…そんなに信用ないものかと思った」
 「まあ…」
 「そうだ。ごめん、マリア。最後にくれた手紙は、僕があちらの砦にいるうちには着かなかったんだ」
 「え?」
 「使者が手間取ったらしくて。僕の手許に着いたのはつい先日だった。偶然宿屋で会えて…見た瞬間、すぐ帰ろうと思った。
 ごめん、マリア。心配かけたね」
 「…」
 一番聞きたかったことを、マリアは思い出した。
 「下手に心配をかけたくないと思って…マリアはまだ知らないと思ったし。帰ってから話しても遅くないと思って、僕からの手紙にはあえて書かなかったんだけど」
 「…はい」
 「父上から、聞いた?」
 「…フェルディオーレさんの、ことですわね?」
 「うん」
 「選択は…セルジオ様におまかせした、とはお聞きしました」
 マリアの声が少し曇る。
 「そうか」
 セルジオはマリアを少し離して向かいあった。
 見つめられると、マリアはやっぱりどきどきする。
 寝ているところだったから、服は何の変哲もない夜着だし、化粧もしていない。1年ぶりに会うのだから一番綺麗な自分でいたかったのに、よく考えたらあんまりだ。
 「実は、まだ決めてない。
 帰って、マリアにキスしてから決めたいと思ったから」
 「…?」
 「ねえマリア、もう一回、ちゃんとキスしてもいいかな。
 …1年前、マリアが僕にしてくれたように」
 マリアはわけのわからないようなまま、あるかなきかにうなずいた。
 …2人はそっと唇を重ねる。
 セルジオは、マリアをしっかりと抱きしめた。華奢で愛らしく、自分が思っていたよりずっと美しかった佳人の感触と、自分の気持ちを確かめていた。
 マリアはマリアでセルジオの背中に手を回し、身体を預けながらこのキスを味わっていた。
 ─ 私には、もうセルジオ様から離れることなんて出来やしないわ。
 覚悟も何もいらなかった。セルジオ様は帰ってきた。今、私とキスをしている。
 誰にも渡せない。私は、この人が大好きなのだとマリアは思った。嬉し涙があふれた。
 そして目もくらむような幸福感の中、
 「ん…?マリア…?」
 マリアは安らかに気を失ったのだった。
 …セルジオはそっとマリアを離し、ベッドに寝かせた。額にかかった髪を優しく除けてキスをする。
 「…もう少し、おやすみ」
 とはいっても、露と泥で汚れてしまったベッドを見て苦笑した。全く、もうちょっとましな状態で帰りたかったものだ。
 マリアが次に目覚めるまでには、きちんとした格好になっておこう。
 そう思ってベッドを離れる。
 …部屋を出るときにふと思った。
 ─ ティレック。今、僕はマリアを「殺せた」のかな…?

 

 「帰ってきたのか、不良息子」
 部屋の外には、知らせを聞きつけた父王が待っていた。
 「ああ、ただいま、父上」
 「お帰り。…しかしまあ、随分素敵な格好で王太子妃の寝室に入りこんでくれたものだな」
 「誉めてくれてありがとう」
 「…」
 「父上、今ここで返事をするけど、僕はやっぱりマリアでないと駄目だ。少なくとも、今はね」
 「そうなのか?」
 メルメ1世は自分より背も高く、逞しくなった息子を感嘆の思いで見つめた。
 「うん」
 「理由を聞いてもいいか?」
 「離れていても、他にキスしたいと思った人がいなかった。帰ってきたら、マリアとしかキスしたくなかったことが分かった。それだけだよ」
 にっこりとセルジオは笑ってみせた。メルメ1世はそうか、と笑い返し、この1年の賭けにどうやら勝てたことを実感したのだった。

 

一年の約束 〜 完 〜

 

あとがき

 

 読んで下さった皆様、一年おつきあい下さってありがとうございました。
 この話はもともとゆうまくん宛の誕生日プレゼントに書いた話でした。
 2002年の誕生日に序章と一通目の手紙を渡して、あとはこのHPでの更新と同じようにエピソードと手紙を月一で届けて…そして2003年の誕生日に完結。皆様にお届けしたのは丁度二年遅れということになります。
 あんまり人気ないのかなあと思っていたら意外と遠距離恋愛カップルから応援メッセージを戴けたりして、やっぱり純愛は強いのねと思う次第であります。
 私として何が書きたかったのかというと、やはりお互いの成長でしょうね。セルジオくんはまさに15歳から16歳、と男性の激動期を過ごしてきたわけですから、是非とも成長してもらわなければなりませんしね。
 対するマリアは19歳から20歳、と女にとって変わるようで変わらないようで、微妙な時期。それでも色々前向きに挑戦していく彼女の姿は書いていて私も楽しかったです。
 あとは…この二人、結婚が早すぎましたからね。このような「一年会わない」っていうのも悪くないかなと。
ばっちりお互いを磨いて、一年後改めて恋におちる、なんてもう最高の贅沢じゃないですか。
 なので今遠距離恋愛をなさっている方々は、とても淋しいとは思いますけど(そして私にはもう絶対無理ですが)成長した自分を見せる、あるいは成長した相手を見られるチャンスだと思って頑張って下さい。普通につきあってるよりはるかに「変わった自分を見せられる」という点では有利だと思いますから。

 まあなんだかんだと書きましたがとどのつまり、

 読んで下さってありがとうございました。

 というのと、

 皆様がお互いの一番大事な方とお幸せでありますように(できたら自分も…)。

 ですかね。
 四人の王女について次の執筆予定は特にないのですが、他の作品も読んで下さってる方は「帝王妃ソフィーダ」あたりでお会いできたら幸いです。

 

                          2005.9.30 神崎瑠珠 拝