一年の約束

 

 4.

 出立の時は、さほど湿っぽくはならなかった。皆、どうせまた来るに違いないと思っていたからである。
 妃云々のことは、結局フェルディオーレには何も告げられていなかった。
 当の彼女はやはり少しは泣いたものの、周りがあまりにあっけらかんとしていたのでそうそう泣き続けるわけにもいかず、
 「じゃあね。元気でね、セルジオ。私のこと忘れちゃ嫌よ」
 「忘れないよ」
 「ホントね?ホントなのね?」
 「うん」
 「じゃあいいわ。また、遊びに来るのでしょ?」
 「来たいね」
 「それなら、許してあげる」
 にっこりと笑った。
 セルジオはそんなフェルディオーレを見て、素直に可愛いと思った。
 「ありがとう、フェル」
 そして、全く自然に公衆の面前で彼女の頬にキスをした。唇にしたいとは思わなかった。
 「セルジオ、てめえっ!」
 「まあっ」
 ハイトは慌て、シュレインはうっとりと赤くなった。ティレックはふっと笑っているし、シードルは特に何とも思っていないようである。
 ギャラリーからは何故か歓声があがった。
 当のフェルディオーレはといえば、びっくりして目をまんまるにしている。
 「すみません、ハイトさん」
 セルジオは悪戯っぽく笑うと、馬にまたがった。
 「こぉの、王子様め…!」
 「セルジオ!」
 フェルディオーレは、セルジオの馬に駆け寄った。
 「セルジオ、馬鹿、酷いわ!許さないから!」
 頬を真っ赤にさせて怒っている。
 「ごめん、フェル」
 「ばか、謝らなくていいから降りて。おりてよ!!」
 「駄目」
 「何で!?」
 「降りると、フェルにキスされるから」
 「…」
 ぐっ、とフェルディオーレは言葉につまった。
 「またね、フェル」
 ─ 今度会ったときにね。
 彼女の唇にキスをしたいと思うかどうか。マリアに会って、キスをすれば分かるかもしれないこと。
 少し楽しみな自分は酷い男なのだろうか、と思った。
 「じゃあ、また!お世話になりました!」
 セルジオは笑って颯爽と ─ というよりは、「逃げるように」砦を去る。
 「セルジオ、バッカヤロー!
 フェバートに宜しくなーっっ!!」
 ハイトの罵声が、清々しく追いかけてきていた。

 

 帰路は割と順調だった。
 行きに供をしてくれた者たちが、また同じように供についてくれていた ─ そのうちの1人は、一足先に砦での最後の夜、マリア宛に書いた手紙を託して戻らせたので、1人少なくはあったが特に不自由はしなかった。
 しかし、いよいよあと少しというところで、とんだ大雨に見舞われてしまった。
 幸い、街道沿いにある宿に泊まっていた時だったので、ずぶぬれになるなどといったことはなくて済んだのだが。
 しかし、夜のうちに降りだした雨は、一向にやむ気配を見せない。
 朝、宿の食堂で集合した時に供の一人が進言した。
 「無理に進んでも仕方ありますまい。馬の脚にも負担がかかります。しばらく待ちましょう」
 セルジオは素直にうなずき、泊まっていた宿にそのまま滞在することにした。
 ─ 早く帰りたいんだけどな。
 いつやむのだろうか。セルジオは朝食後に何気なく宿の軒先に出た。
 全くよく降る雨である。雨粒が地面に叩き付けられ、盛大に跳ねていた。視界も悪い。
 さすがに出発は無理だなと思い、止む気配のなさにがっかりした後宿の中に戻ろうとすると、同じように軒先に様子を伺いに出てきた客とぶつかった。
 「すまない」
 「…セルジオ様!?」
 「え?」
 簡素に謝ってすれ違おうとしたセルジオは、突然自分の名を呼ばれて面喰らった。
 「やっぱりセルジオ様ですな?ああ、よかった、お会い出来て……」
 相手の顔をよく見ると、確かに知った顔だった。セステアから、この1年マリアからの手紙を数回持ってきたことのある者だった。
 「そうだけど…どうかしたのか?」
 「はい。王太子妃殿下より、お手紙を預かっております」
 「マリアから!?」
 吃驚した。
 「申し訳ありません。セルジオ様の出立前に間に合うように、と王太子妃殿下より特にお言葉を戴いたのですが、少し遅れまして、国境についた時にはもうセルジオ様がご出立なさった後でして…懸命に追いかけたのですがなかなか追いつけず、とうとうこんなところまで…。お叱りは覚悟の上でございます。申し訳ありません、セルジオ様」
 「いや…それは事情があったのなら、仕方ないけれど…。とりあえず、マリアからの手紙をくれないか?」
 「はっ」
 使者は懐から、油紙に大事に包んだ一通の手紙を取り出した。
 セルジオは待ち切れずにその場で開く。…本当なら、この手紙はほぼ1ヶ月前に読んでいるはずだった。
 マリアから手紙が来ないな、とは思ったが、出立とすれ違いになってはいけないと思って出さなかったのかと思っていた。
 前半部分は微笑ましく読んでいたセルジオだったが、最後の段落を読んで顔色を変えた。


 「…少し、穏やかでない噂をお聞きしました。
  私の母は妾妃でしたし、王家である以上そういったことはよくある話で、こちらも例外ではなかったというだけですけれども。
  それでも…少し、複雑な気分です。
  でも、今はとにかく、お帰りになるのをお待ちしています。
  あと少しで、セルジオ様にお会いできる。
  それが、今の私の支えです。
  お帰りになったときに恥ずかしくない自分でいようと思います。…それから、噂に対しても…あまり見苦しくない自分でいようと、思います」

 

 噂?
 どういうことだ?
 「…父上は、話していないのか…」
 この内容が、フェルディオーレを妃に迎えるかどうかということを指しているのは分かる。
 マリアに下手に心配をかけてはいけないと思ったのと、自分の気持ちが固まってから話そうと思っていたので、あえて書かなかったのだが。
 …はっきり知らない、ということはマリアはどういう風に尾ひれがついているのか分からないような噂に、胸を痛めているかもしれないのだ。
 セルジオは居ても立ってもいられなくなった。
 宿の中に取って返し、ずかずかと2階の自分の部屋に向かう。
 「セルジオ様!?」
 慌てて使者が追いかけてきた。
 声を聞きつけて、供の者達も何ごとかと顔を出す。
 セルジオは部屋の中に置いてあった自分の荷物をひっつかんだ。
 「セルジオ様、どうなさったのですか?」
 「行く」
 短くセルジオは答え、そのまままた階段を降りようとした。
 「どうされたのですか」
 「一刻も早く、セステアに戻る。道はもう分かるから、お前達はあとから来てくれ。僕一人で行く」
 「…正気ですか?この雨ですぞ?」
 「構わない」
 セルジオは蒼い瞳に明白な意志を乗せて、供に向き直った。
 「帰らなければならないんだ。今すぐに。
 マリアのところへ」
 「困ります、セルジオ様」
 「何故だ?」
 「我々には、あなた様を無事に王城まで送り届ける義務があります。やり損なえば首が飛んでもおかしくないのです。お分かり下さい」
 「父上への釈明は僕がする。僕が勝手にすることだ!」
 「…セルジオ様、お許し下さい」
 ─ 不意に気が遠くなった。
 セルジオは床に倒れこみながら、供の者が「衝撃」の魔術を使ったことを薄れゆく意識の中でぼんやりと悟った。
 ─ …マリア。