一年の約束

 

 その11 

 出立の日が来た。
 この11ヶ月、慣れ親しんだこの部屋とも、この砦そのものとも、今日でお別れだ。
 荷物はもうきちんとまとめてある。
 セルジオは、忘れ物がないかどうか見渡した。ついでに、もう多分二度と戻ることのないであろう部屋を、しっかりと目に焼きつけておく。
 南向きの窓から見える外の景色にも、別れを告げる。
 辛いこともあったような気がするが、それを補って余りある程の経験をした。楽しいことも嬉しいこともちゃんと存在した。
 ただ一つ、マリアがいなかったことだけを除けば。
 「セルジオ?もう起きてるのでしょ?朝ご飯よ」
 声とともに、可愛らしい少女が顔を覗かせた。
 フェルディオーレ。
 先日、やっと11歳になったばかりだった。この11ヶ月の間に少し背も伸び、娘らしさも徐々に出ては来たが、やはりまだおしゃまで、子供らしさが抜けない女の子だった。
 「ああ、おはよう。フェル」
 「…すっかり、片づいちゃったのね」
 するりとドアをすり抜けて彼女は部屋に入り、溜息をついた。
 「立つ鳥後を濁さずってやつだよ。この部屋にもお世話になったからね」
 「ん。…でもここの部屋は、もうセルジオの部屋よ?お父様もそうしておくっておっしゃってたわ」
 「有難いなあ」
 セルジオはにっこりと笑った。
 「それより、ご飯だってば。朝ご飯。行きましょ?」
 フェルディオーレはそういうと、全く自然にセルジオの腕を取った。 

 

 食堂には既にハイト以下、家族が全員揃っていた。
 「おはようございます」
 「ああ、おはよう」
 ハイトも、ティレック、シードルも、昨夜セルジオの送別会と称した大宴会でしこたま飲んでいたはずなのだが、慣れのおかげなのか元々強いのか、色にも残った様子がなかった。
 この点は本当に尊敬する。セルジオは…この1年で鍛えられたとは思うが、まだまだだ。
 昨日の宴会では、「明日以降に差し障るといけないから」という理由であまり飲みもせず、早々にひきあげてしまったのだが、次にそういう機会が持てるとしたら彼らに負けないペースで飲めたらいいなとは思う。
 「セルジオ様、昨夜はよくおやすみになれまして?」
 シュレインが訊いてきた。
 この奥方は、初めて会ったときから変わりない。少女がそのまま大きくなったような ─ もっと言うと、フェルディオーレがそのまま大人になったような、そんなままの人だ。
 ハイトがぶつくさと言いながらもその人となりをとても愛していることも、セルジオはちゃんと分かった。
 「ええ。大丈夫ですよ」
 「なら宜しいわ。今日から長い道のりですものねえ。大変ですわ」
 「馬鹿、セルジオをそんなヤワに鍛えた覚えはないぞ。行きより遥かに楽なはずだ。なあ、ティレック?」
 ハイトが口を挟んだ。この人は…やはり、初めて会ったときの通り「熊」という印象だ。
 この人にはいくら感謝してもし足りない、とセルジオは思う。
 友達の息子、というだけで自分の息子と同じように大事に扱い、本気で鍛えてくれた。
 口さがない人が言うような名誉欲、出世欲などは微塵も感じなかった。本当の、心からの善意だった。
 そんな友達を持った父を、心底羨ましいとセルジオは思った。─ そんなことはなるべく、父上には言いたくないけれど。
 「勿論ですよ。1年もかけて僕たちが鍛えたんですからね」
 ティレックは1年前よりもっと美貌が際立ってきたように思う。シュレインゆずりだ。鍛えられた体、綺麗な顔、明晰な頭脳。砦中の女性の憧れだった。
 多くの女性からもてたいとは思わないが、素晴らしい魅力を持っているというのは羨ましいことだと思う。
 「まだまだひょろっこいけどな。まぁ、まだ16だしな。帰って更に修業を積めばいいさ」
 もう一人の兄貴分、シードルも言った。
 こちらはあからさまにハイトの息子だと分かる。ますます「熊」という印象も強くなってきた。
 ティレックとは正反対のタイプだが、悪気というものがさっぱりない、清々しい人だった。同性に好かれるタイプだということがよく分かった。
 「勿論、ここで毎日やっていたようなことは帰ってからも続けますよ」
 笑いながらセルジオは返し、自分の席に着いた。
 「おう、ちゃんと続けろ。そして、フェバートを打ち負かしてやれ」
 「勿論です」
 それは、多分一生をかけた目標だ。どうしたって、父を越えなければならない。
 「セルジオならきっといい王様になるわ。私も応援してよ?」
 「ありがと、フェル」
 そうして、最後の朝食が始まった。

 

 その前日。
 宴会の前に、セルジオはハイトに呼ばれた。
 ハイトの私室に行くと、なんとも言いようのない、見たこともないような複雑な表情のハイトがそこにいた。
 「まあ、座れや」
 なんとなく訝しんだまま、ハイトと向かい合わせのソファに座る。
 「何ですか?」
 「ええと、だな」
 ハイトは、一通の手紙を差し出した。
 筆跡は…見た瞬間分かった。父のものだった。
 「…父上から?」
 「うん」
 「…見ても、いいんですか?」
 「…構わんが、その前にだ」
 「?」
 しばらくハイトはためらった後、搾り出すように言った。
 「その…お前さ」
 「はい」
 「カケラでもいい、うちのフェル坊を、妃にする気はあるか?」
 「えええ!?」
 セルジオは、心底驚かされた。突然何を言うんだ、ハイトさんは。
 「本音で言ってくれて構わん。どうだ?」
 「…」
 一体、どういう意図があるのだろう。
 ついでに、父からの手紙には何が書いてあるのだろうか。
 息を飲んで返答を待っているハイトの顔を見つつ、セルジオは途方に暮れたのだった。