おみやげ
夜が明けるくらいの時間に、船は霧のたちこめる港についた。
カーレンは赤いギンガムチェックのワンピースと赤茶色の薄いコートをきちんと着、たいして中身の入っていない、彼女の髪と同じ、くすんだ茶色のバッグを持って港に降り立った。
深い蒼色の瞳を揺らし、辺りを見回す。それから、すうう、と深呼吸をした。霧の中で息をすると、何となく霧がおなかの中に入って行くような気がする。味のない綿あめを食べているような感じで、妙なものだ。
もう他の船客はあらかた降りて、それぞれの行き先へ向かったあとだった。
辺りには荷物の上げ下ろしをしている水夫や、カモメなどしかいない。
「ごめん、待たせたね。行こう」
霧の向こうからやってきたのは、バートおじさんだった。
船員服をフロックコートですっぽりと隠しているために、何だか違う人のような気がする。そしておじさんはカーレンよりもよっぽど大きなバッグを持っていた。
「どうだい、久し振りに地に降りた感じは」
「…変な感じ。地面が動かないんだもの」
「ははは。私もそうだよ。もう動くのが当たり前になってしまったからね。─ あ、いたいた」
バートは自分の家の馬車を見つけた。まずカーレンを乗せ、そのあと自分も乗る。御者がドアを閉め、その二頭だての馬車は穏やかに走り始めた。
「…おじさん、何か嬉しいことでもあったの?」
バートはいつのまにか笑顔になっていたらしい。
「え?あ、ああ、いや…。君を見てたら思い出したんだよ」
「何を?」
「私のちっちゃな姪のことをさ」
「めい?」
「そう。兄の娘だ。その話はしてなかったのかな?」
「聞いてない」
「じゃ、話してあげよう。家に着くまで時間はたっぷりあるんだ」
1.
バートの小さな姪 ─ シェイリーは、全く可愛い女の子だった。ぱっちりとした蒼い大きな瞳、ふっくらとした頬、ぷっくりとした唇、そして美事なお日様色の、波打つ髪。見る人が思わず笑顔になるような、愛らしいと思わずにはいられないような、そんな女の子だった。
そのシェイリーは勢いよく台所に走ってきて、彼女の母親に抱きついた。
「なあに、シェイリー。今は遊んであげられないわ。ごめんね」
「お母様お母様、ねえ、叔父様がいらっしゃるのは今日?本当に今日?」
母親はにっこりと笑って持っていたふるいをテーブルに置いた。
「本当に、今日よ。さっきお父様が迎えに行かれたわ」
「ええっ!?シェイリーには何も言って行かなかったわ」
「そりゃあ、言ったらあなたのことですもの、連れてって連れてって、って大変でしょ」
「だって…早く叔父様に会いたいもの。ねえお母様、シェイリーも今から港に行ってはだめ?」
「だあめ。迷子になったら大変ですからね。そんなにあせらなくても、じき叔父様は来ますよ。2階でアレックスと待ってらっしゃい。お母様は今、あなたの叔父様のお迎えの準備で、とてもとても忙しいのよ」
「…叔父様、あとどのくらいしたらいらっしゃる?」
「そうね、あと1時間くらいしたら、じゃないかしら」
「わかったわ、お母様」
シェイリーは言うがはやいか台所を出て、2階の自分の部屋へ向かった。
…母親がやれやれと思ったのもつかの間、またシェイリーがあらわれた。今度は大きな金色の愛犬、アレックスも一緒である。
「ねえお母様お母様、後ろのおリボン結んで」
母親はびっくりした。シェイリーときたら、よそゆきの、一番上等の赤いビロ−ドのドレスを着ているではないか。
「シェイリー、これはどうしたこと?」
「だって、叔父様がいらっしゃるのよ。ね、お願い」
「だからって…シェイリーは普段着のままでも十分可愛いわよ」
「これがいいの。ねえお母様、おねがい」
何を言ってもききそうになかった。母親はあきらめ、ドレスのリボンをきちんと結んであげた。
「髪も結って、お母様」
「はいはい」
もうこの子の気のすむようにしてあげよう。それにしても、よくて半年に一度くらい来る叔父のおみやげとお話は、この子にとってなんて魅力的なものなのかしら、と母親は思った。
身支度が終わると、
「今度こそお母様の邪魔をしないでちょうだいね。とても忙しいのよ」
母親はそう言って、シェイリーを追いやった。
台所から出たシェイリーは、しばらくアレックスとにらめっこをする。
「どうしよっか、アレックス。もうすぐ、叔父様がいらっしゃるのよ。シェイリーにおみやげをたくさん持っていらっしゃるのよ。いいでしょう。たくさん、お話もして下さるのよ」
楽しみで、嬉しくて仕方がない。
一番お気に入りのこの服も着たし、結った髪には同じ赤いビロードのリボンもしてもらった。
あとは…。
叔父様、あとどのくらいしたらいらっしゃるのかな。シェイリーは、廊下の柱時計を見上げた。
母親は、ドアの向こうから聞こえてきたうえええええん、という泣き声にびっくりした。
シェイリーの声だ。彼女は慌ててドアを開け、声のする方に行く。
果たして、愛娘は床にひっくり返って泣いていた。
「…?どうしたの、シェイリー?」
「お母様、お母様、アレックスったらひどいの、ひどいのよ」
「泣いてちゃ分からないわ、ちゃんと説明してちょうだい。アレックスが噛んだの?」
「ううん…ちがうの」
母親はシェイリーをきちんと立たせ、やさしく頬にキスした。
「どうしたの?」
「あのね、叔父様がいらっしゃるんだから、時計もかわいい方がいいと思ったの。だからおリボンをね」
母親はその時初めて、しゃくりあげながら説明するシェイリーの手にしっかりと赤いリボンが握られていたことに気づいた。
時計…?廊下の、大きな柱時計のことらしかった。
「針に結ぼうと思って、アレックスの上に乗ったの。あとちょっとだったのに、アレックスったら途中で動いてシェイリーを落としたのよ。うええええん…」
アレックスはくうううん、と心配そうに柱時計の向こうからこちらを見ている。
「シェイリー、それはあなたが悪いわ。だって、あなたはもう赤ちゃんほど軽くないんですもの。アレックスだって重かったら嫌がるわよ」
「だって…」
「シェイリーだって、アレックスに上に乗られたら重くて嫌がるでしょう?」
「…」
「アレックスも同じ。ね?アレックスは犬で、ふみ台じゃないのよ。それをちゃんと分からなきゃいけないわ」
「…」
こくり、とシェイリーはうなずいた。もともと素直な子なのだ。
「じゃ、アレックスにごめんなさいは?」
「ごめんね、アレックス。こっちきて」
アレックスは言葉をちゃんと理解し、シェイリーのもとに来て愛らしいほっぺたをなめた。くすぐったくて、シェイリーは笑う。
「さあ、顔を洗ってらっしゃい。叔父様がいらした時、シェイリーが泣き顔だったらがっかりなさるわよ」
その母親の言葉に、シェイリーは「たいへん」を絵に描いたような表情で、慌てて洗面所に走って行った。
それからしばらくは、平穏だった。妙な物音もしないし、声もしない。母親はほっとしつつもどこか気になり、途中で手を止めて台所を出た。
と、丁度入れ違いに台所に入ってこようとしていたお手伝いが、
「あのう…奥様…。お嬢様が…」
「シェイリーがどうかしたの?」
「いえ、階段のところでじいっと固まっていらっしゃるんですわ」
「固まってる?」
「なんですか、あの…かけっこの『よーい、ドン!』の体勢ですか?あんな感じで」
「???」
とにかく母親は玄関近くの階段に向かった。
言われたとおり、シェイリーが玄関に向かって身構えている。横に、アレックスが律義に控えていた。
「…シェイリー?あなた、何してるの?」
「叔父様を待ってるのよ」
じいっと玄関の方を見たまま、シェイリーは真面目に答えた。
「何でそんなポーズで待っているの?」
「ドアが開いたらすぐ叔父様のところに走っていけるように」
「だったら玄関口で待ってたら?」
玄関まで、たっぷり10メートルはあるのだから。
「ううん、走っていくのがいいの」
そのとき、ドアがかちゃりと音をたてた ─ !
「叔父様!!」
ドアが開きかけた瞬間にシェイリーは走り、入ってきた人にはずみをつけて抱きついた。アレックスもつきあい、一緒に走る。
「叔父様、叔父様あっ!!!」
「…お嬢様…?」
─ あれ?
声が違う。
シェイリーが抱きついていたのは、バートの荷物を持った御者のハンスだった。
「バート様と旦那様は、あちらですよ」
2人はハンスの5歩ほど後ろで、笑いをかみ殺していた。その隣でアレックスが、ぱたぱたとしっぽを振っている。
シェイリーは、ハンスから離れるのも忘れてその大きな瞳を2、3度ぱちくりさせ、そののちに
「ふえええええんん ──── っっ!!!」
思いっきり泣き出した。